
Fly me to the moon
何年か前に眠れない夜、インターネットで宇宙に関するサイトにハマり、そこから宇宙の本や写真集を買い、宇宙を感じられる家庭用プラネタリウムを買い、夜には東京で見られる数少ない星を眺めて宇宙に魅せられた。
東京で唯一神秘的に眺めることができる星といえば、やっぱり月。満月の夜でも特にスーパームーンが空に浮かんでいる時の感動は忘れられない!見つめているだけで月からパワーがもらえる。そんな気がした。首が折れるほど眺めていても飽きない、それは見事な満月。
そんな月を眺めていた時に私の脳裏に”Fly me to the moon"の曲が流れた。確か、シナトラがよく歌っていたジャズの名曲だ!ネットは親切だから、シナトラ以外でその名曲を演奏しているサイトを次々と表示してくれる。そんなわけでその曲を演奏しているサイトを色々見て、その時の私の気分にぴったりマッチした感じで演奏しているサイトを探した。
そして、そう、出会ってしまったのだ。サックスで素敵な”Fly me to the moon"を演奏しているサイトに。
とろけるようなサックスの音色に、私の胸の鼓動は高鳴り、気分は月に飛んだのだった。ネットサイトにはコメント欄がついている。私は今まさに自分のハートを月に連れて行ってくれた演奏者に、厚かましいかと思ったけれど、コメントを書き込んだ。
「うっとりするような調べですね。月にふわふわと飛んでいきたくなります。今度満月を眺めながら、聴いてみたいです。ありがとうございます。」
見ず知らずのサイト訪問者の私のコメントに返信されるとは全く期待していなかったのだけれど、なんとその演奏者本人からの返信が届いた!
「とても励みになりました、おかげ様でもっと良い音になるように頑張れそうです。ありがとうございます!」
あまりの嬉しさに、私はぜひ生で彼の演奏を聴いてみたくなった。
彼のHPのスケジュールを見ると、渋谷のジャズクラブ「ボディアンドソウル」で彼が出演するバンドのライブが近くあることがわかった。
ジャズクラブかあ〜、これまで生きてきて一度も踏み入れたことのない場所だった。大きなホールでのジャズ以外のライブなら何度も経験しているけれど、ジャズクラブはちょっと敷居が高いように思った。というか、ジャズに全く無知な私のような人は行ってはいけない場所、そんな気がしたのだった。けれども、今行かなくては絶対に後悔する!なぜかそんなふうな気持ちに押されたような気がして強い気持ちを持って予約した。
そんな私なのに、ネットのコメント欄には図々しくも
「4月6日、十六夜です。ほぼ満月。この曲が演奏されますように!ライブ楽しみにしています!!」
と失礼にもリクエストする書き込みを入れたのだった。
「それはありがとうございます、よろこんで演奏させていただきます。」
え?え?こんな素敵なコメントが速攻で返ってきた!!これまで、ロックバンドとか、クラシックとかのコンサートに行ったけれど、演奏者が身近に感じるなんてことはただの一度もなかった。まあ、何千人、何万人と入るような会場では、演奏者はただの憧れの人で、それこそ月くらい遠い存在だ。
それが、ジャズの演奏者はこんなにも身近に接してくれるものなのか。再び空にも舞い昇るような感動だった。
そして、そのライブの日を迎えた。
1stステージと2ndステージの合間に、バンドのメンバーの中でも私のお目当てのサックス演奏者、佐藤洋祐さんが客席を挨拶に回ってくれた。私の目の前にもやってきて「今日はありがとうございます」とにこやかに声をかけてくれた。初対面だし、もちろん、彼は私を知らないし、当然ネットサイトにコメントした人ということも知らない。
「あの、ネットに書き込みをして、今日リクエストしたものなんですけど」というと、彼は「ああ、あなたでしたか」と嬉しそうに応えてくださった。
そして、少しの間、談笑して席を離れた。
そして、30分ほどの休憩タイムが終わり、2ndステージのトップで”Fly me to the moon"を演奏してくれた。バンドでの演奏なので、ネットでの一人演奏の感じとはまたひと味違う演奏だったけれども、ヤッター!と小躍りしたい気分だった。
ジャズクラブの客席は演奏者の間近だったこともあり、これまでの人生でこんなに熱いサックスの演奏を目の前で聴けたことはただの一度もなかったので、とにかく感動の一夜だった。
その日の感動が忘れられなかったので、しばらくしたある日、あの一夜をイラストに描いてみた。

それからの私はこのサックスプレーヤーの佐藤洋祐さんの推し生活をしようと心に決めたのだった。
これまでジャズクラブなんて行ったこともなかった私が、若者と外国人で賑わう渋谷という、今の自分には全く似合わない街まで、佐藤さんの生演奏が聴きたくて行き、その度に佐藤さんとも近しい存在になり、ついには他のジャズクラブにも行ってみようと思えるまでになった。
ジャズはバンドでメンバーが変わるから、その度に他の演奏者の素敵な演奏も聴けて、私の押し活によりジャズの名曲に沢山出会うことができた。
ある日、「君がそんなに夢中になるんだったら僕も行ってみようかな」と夫が言った。本来は夫の方がジャズに詳しいのに、僕も行きたいと言えなかった。なぜなら夫は音楽関係の会社に勤務していたので、世界に名前の通ったジャズプレイヤーの演奏だけがジャズと思っていたんじゃないか。実際そういうイベントに沢山立ち会ってきただろうから。
ところが、私があまりに佐藤さんの出演するジャズクラブに嬉しそうに出かけるので、そろそろ僕も聴いてあげよう、みたいな感じではあったが、後のライブで、私の大好きな佐藤洋祐さんに夫を紹介できたことはとても嬉しかった。
そして去年は私達夫婦にとって記念すべき結婚20周年だったので、その記念日に近い日に佐藤さんのライブが渋谷のボディアンドソウルで行われる予定だったので、夫と一緒に行こうと予定していた。夫のスマホにもそのスケジュールが書き込まれ、実際に楽しみにしていた。
ところが、夫は二度とジャズライブに行くことはなくなってしまった。
なぜなら、去年4月に友達と旅行に行き、そこでコロナに感染してしまい、その後一週間で帰らぬ人となってしまったからだ。本当にショックだった。
けれども、私は夫と行く予定をしていたそのライブをキャンセルはしなかった。そして佐藤さんにライブ前に事情を説明し、夫と一緒に聞きたかった曲をメッセージでリクエストした。
「私、これまで歌の入ったジャズはあまり聞いてなかった気がするんですが、夫が亡くなってから、ボーカル入りが心に沁みます。いつか佐藤さんにAlmoast Like Being In Loveを歌ってもらいたいです 21歳に夫と初めて出会って恋した日を思い出して。この曲は最近知ったんですけど、有名なスタンダードなんですよね?明るくて世界が薔薇色に輝いている気持ちを歌っている感じでいいですね!」
すると佐藤さんからは
「よろこんで歌います! 」
という心温まるメッセージを頂戴しました。
夫がいなくなってしまった今、ジャズと、佐藤洋祐さんと出会えていなかったら、どうだったのだろうと思う。今、私の心の支えは、生ライブで素敵なジャズを聴くことだ。ありがたいことにまだまだ聴いたことのない名曲が膨大にある。
ジャズの生ライブ、この先もこのハマった沼に私は通うことになるだろう。そして、沢山の人と出会い、沢山の名曲と出会うことになる。きっと、そのそばに夫もいてくれるだろうと思う。