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マンション管理組合は小さな社会

私は40~50戸くらいのマンションに住んでいて、今現在、マンション管理組合の理事をやっている。以前にジャン負けで防火管理者講習を受けてきたのも、このくだりである。

全住人が近所の公民館などに集まる総会も年1度くらいはあるけれど、わざわざ集まるのも大変なので、予算内の細々したことは5人くらいの理事会で決めてしまう。前回までお仕事が重なって妻に任せてきたけれど、昨日は用事も重なったため、お仕事の方をサボって理事会に出席してきた。

議題としては「雨水管が詰まった問題」「植え込みが薄くなった問題」「鳩が住み着いた問題」への対策の類で、予算を投じて修繕するかを決める。以下、理事になっての心境変化と、どのように判断するのがよさそうかを記す。

手厚いサービスには対価が伴う

「雨水管が詰まった」のような話題になると、そのまま放置する訳にもいかないので業者に依頼するという判断になる。ここまでは当然の話ではある。

「今後どうする?」というところで、「日々の清掃や定期点検でちゃんと観てくれれば、こんなことにならないのではないか!」という意見が出てくる。総会でよく出てきそうな意見であり、理解はできる。

でも、日々の清掃や定期点検の仕様を見直して手厚くすると、そのぶんコストが上がって、月々の管理費も上がる可能性がある。仕様変更のコストと有用性を見極めて、期待値を求めなければ判断できない。住人は問題提議するばかりで、裏付けの情報収集は管理会社がやってくれるので、だいぶ手厚いとは感じる。

私の独断的な印象ながら、少なからずの住人の口調から「無尽蔵にサービスが受けられて当然」という意図を感じることがある。でも実際は、みんなから集めた毎月の組合費を元手にサービスを生み出しており、サービスの質を決めているのも自分達なのである

理事会に出て、予実とにらめっこしながら判断を繰り返すことで、↑そんなことを意識した。市町村や国のサービスだって本質的には同じであることに気付く。ただ、社会が大きくなるほど多様な市民が参加することになり、自分が恩恵を受けない行政サービスも増えるため、間接的に感じている。

一般意志によって判断しよう

例えばの話、エレベーターが不調になって大規模な修理代がかかる状況を想定しよう。1階の住人が特殊意志として「私はエレベーターに乗らないので修理しなくても困らない」と言い出しても不思議ではない。この例の場合は2階以上の住人の方が多いので、多数決をとると全体意志として修理される判断になる。めでたしめでたし。

多数決には危ういところがあって、「1階の奴が生意気だから、エレベーターの修理代を1階の人に全額を払わせようぜ!」と結託して、2階から上の住人全員が賛成すれば可決されてしまう。ライアーゲームやカイジの世界ではよくある話だろう。

太字で書いた「特殊意志」と「全体意志」はルソーの社会契約論から言葉を借りてきた。以前に紹介したホッブズの絶対王政よりも、ルソーの方が民主的な側面を考慮している意味で進歩している。

ルソーは自由で正当な社会として「一般意志」で判断することを推す。マンション理事の判断も、マンションとしてどうあるべきかで判断すれば納得感あるのかなと考えている。

一般意志...とは、共同体(国家)の成員である人民が総体として持つとされる意志のこと。

思考実験として、学校の席替えみたくマンションの部屋をシャッフルすることを想定する。次はどこに住むか分からない状態で、エレベーターを修理するかどうか判断してみるのも、今の立場によらない判断の助けにはなる。

↑こちらの例え話は、飲茶先生の本で読んだ気がするけれど、貸し出していて裏付けがとれてない。ルソーじゃない別の哲人の論かもしれないし、違う本かもしれない。ただ、貸すほど面白かったので #推薦図書 として推す。

1階の植え込み修理が可決した

私のマンションで実際にあった議題はエレベーターではなく、「植え込みが薄くなって人目が気になる」対策に予算投下するかの判断だった。

1階の住人は気にするけれど、2階以上の住人はそれほど意識しない問題である。「それほど見栄えは損なっていないし、わざわざ予算つかわなくて良いんじゃない?」と感じる人が多ければ、多数決で修繕しない判断となっても不思議ではない。というか、私自身がそう思った。

総会で多数決をとった顛末としては、植え込みをなおす予算が組まれた。それなりに一般意志が機能しているのだなと感心した。

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odapeth
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