好きなことは好きと言える環境をつくりたい
先週末、職場の有志でやっているLT大会があり、好きなことを話す演者がみんな吹っ切れていて楽しかった。
自分の好きなことを話すのだから、誰からも否定されなくていい。客観性に気を遣う必要もなく、のびのび話をしているので、聞いていて心地よい。
以下、若手の方がお話していた内容で気になったことをピックアップする
行儀よく真面目な新入社員でも尾崎を聴く
発表の本筋ではないけれど、尾崎豊を好んで聞いているよという新入社員さんのエピソードが印象に残った。ただのN=1に過ぎないけれど、「最近の若者は尾崎なんて聞かない」というステレオタイプで片付けてしまうことは恥ずかしく感じた。
むしろ、「最近の若者」で一括りにすること自体が、みんなで一緒に「巨人・大鵬・卵焼き」を好むような過去のパラダイムに生きている。振れ幅があることを思うと、尾崎が好きな新入社員がいても不思議ではなかったんや。
嗜好そのものも去ることながら、それを公言することも実は珍しいことかもしれないと後から思った。以下の話題に続く。
推しバレは避けたい価値観
別の若手ホープが話していた「推しバレせず推しについて話したい」という話が印象に残った。※「推し」は、オッサン世代で言うと「好きなアイドル」みたいな概念。
私は好きなことを好きと公言するのが当たり前だと思っていたし、そうしないと勿体ないくらいに今でも思っている。
公言できる若者もいるので一概には言えないけれど、推しバレしたくない話はいかにも「今時の若者」っぽいなと感じた。自分の当たり前が他の人にとっても当たり前とは限らないことは心に留めておきたい。
おそらく、推しを公言することによって得られるメリットに関しては、若手でもオッサンでも共有できていると期待はする。情報は発信する人のところに寄ってくるし、趣味が合う人と繋がる可能性も高まる。
でも、推しバレによって生まれるデメリットが大き過ぎてメリットを上回ってしまうので、天秤にかけると推しバレを嫌うんじゃないかと推測している。
推しバレのデメリットの正体
必死に推し活している姿が「キャラじゃない」ため知られたくないという個人的な理由もあるだろう。それは是非、尊重されるべき。
それよりも重大に思うのは、人間関係の在り方が一昔前と変わったことにある。情報伝達の速度が上がることで、マウントを取られることや、アンチに攻撃されることが起こりやすい世の中に変わった。
インターネット以前は、好きなこと雑誌で公言して文通する友達を募っていた。かなり頑張らないと友好関係を維持できないので、嫌々つながり続けることは起こりにくかった。
Twitterの世界に変わると、趣味の合う人同士で繋がるコストが下がる反面、望んでもいない方向からクソリプが飛んでくる。検索避けしたり、ブロックしたり、不快な人を避ける労力を遣わねばならなくなった。
私世代でもインターネットに馴染みはあるものの、どこか「現実世界」と「ネット世界」が別々にあると捉えている。だから、嫌ならインターネットから距離を置けばいいくらいに思っている。
それがデジタルネイティブになると、空気と同じくらいインターネットが無意識の存在になって、切り離せない世界なんだろう。私の感覚からすると、生き辛いよなぁと想像する。
それでも推しが語れる場を作りたい
決して「デジタルネイティブ世代が軟弱だ!」と非難したい訳ではないし、「江戸時代の生活に戻すべきだ」と主張したい訳でもない。
ちょうど私たちの世代が「最近の若者は火も起こせないのか」と言われてきたような話。つまり、環境変化により生き抜くためのスキルや価値観も変わり、一昔前のたくましく生きる術が役立たなくなった話だと捉えている。
オッサンが現状維持で生きていく上で苦労はないだろうけれど、情報交換の作法が変わるとすれば、新しい情報から取り残されるのはオッサン側だろう。
同じ人間関係を5年間続けていると、身の回りの平均年齢は5歳老ける。クリエイティブのお仕事は「インプットを辞めたら死ぬ」と言われているだけに、けっこう死活問題だ。
だからと言う訳ではないけれど、自分が場を作れるなら、好きなことは好きに話せるようにしたい。隠している推しを無理に暴きたい訳ではない。本人が自ら話したくなるような場をつくりたい。だって、それを聴くのが私にとっては楽しいから。