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「何でも食べないと大きくなれない!」なんて時代でもない

先日「どうして好き嫌いしてはいけないのか?」と子供から聞かれた。ちなみに我が子に嫌いな食べ物は少ないし、苦手でも不平を言いながら食べるんだけど、改めて考えるとどうして好き嫌いは駄目なんだろうか。

「なんでも食べないと大きくなれない!」というありがちな回答に対して「本当だろうか?」と疑っている。仮に本当だとしても「今の子供達の価値観に響くのか?」についても疑っている。

自分が腑に落ちない事は子供にも言えないので、自分の経験から導いた回答「好き嫌いが少ない方が友達ができやすい」という話。ほか。

栄養摂取が目的であれば他の選択肢もある

食事を取り巻く環境から「何のために食事をするのか?」について問う。モノが少ない戦後は栄養摂取が重要だったけれど、モノが溢れた今日では栄養摂取が理由にはならない。なぜなら、きちんと配慮して献立を立てれば、他の選択肢によって栄養素を得ることもできるからである。

ただ、食べられないものの制約が増えると、栄養摂取の配慮をするために考えるコストが増える。乱暴に言えば「おまえの好き嫌いに合わせて献立たてるのがめんどいから黙って食え!」という話に帰着する。もしアレルギーだったら最大限の努力をするしかないので、出来ない事は無いのだけど、好き嫌いとなると本人に頑張ってほしい気がしてくる。

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自動調理器にほりこんでスイッチ入れるだけで調理できる世の中になったので、そこまで好き嫌いを配慮してほしければ、栄養摂取の配慮をした献立を自分でたてて料理まで済ませてくれれば家で生活する上で問題は無い。技術がハードルを下げてくれた一例にもなる。

誰とどこで食べるかを重んじる価値観から

人々の価値観は多様化していて、みんながこぞって三高(高学歴・高収入・高身長)を求める時代はバブルとともに終わった。だから「好き嫌いをすると大きくなれない」のが仮に本当だったとしても、「別に私は大きくなりたい訳ではない」という反論はありえる。まだ「元気になれない」の方が普遍的な欲求として納得しやすい。

食事に対して何を求めるかという価値観でも、少なくとも栄養摂取だけが目的ではなくなった。仮にサプリ・点滴・仙頭で効率的に食事を済ませる選択肢が与えられても、私は人生で限られた食事の機会に美味しいものを食べたい。食べるという手段そのものが目的化して久しく、美味しいものを食べることさえ当たり前になって、誰とどこで食べるかの要素が重要になってきている。

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誰とどこで食べるのかに焦点を当てると、好き嫌いの弊害として「友達に誘ってもらいにくくなる」ことが挙げられる。誰かと一緒に食事する計画段階で、配慮してもらうコストがかかるので、気軽に誘ってもらいにくくなる。そこまでしても「一緒に食事したい」と思ってもらえる人になりたい一方で、相手に負担をかけない配慮として好き嫌いは無いに越したことがない。だから、「何でも食べられると友達ができやすい」ことを、私が経験から得た教訓として挙げた。

大人のアドバイスは妥当なのか?を疑う

親として子供にアドバイスできるのは、30年ほど長く生きてきた中で「こんなことをやったら上手くいった/失敗した」という経験から得た教訓である。おばあちゃんの知恵袋みたく、先代から受け継いだ知恵もある。

でも時代は変わる。高度経済成長期を経て栄養摂取が当たり前のものに変わり、美味しい食べ物も当たり前に変わったように、時代の変化はどんどん早くなっている。自分が経験から得た教訓なんて、子供達が大きくなるころに通じるのかは疑わしい。

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今の子供が大きくなった頃には、同じ釜の飯を食うという文化がなくなるかもしれない。個人的には寂しく思うけれど、今現在ですら若者の酒離れは進むし、会食は控えるのが良しとされているご時世だし、十分にありえる。
アレルギーや宗教的な理由で食べられない事情も尊重すべきという思想から、フードテック業界は食の個別化に取り組んでいる。食べ物の好き嫌いが個性となり、人権として尊重される未来がくるかもしれない。

親の役割として現時点で考えうる「好き嫌いによる弊害」は示すものの、未来には変わっているかもしれない。弊害を無効化するような未来をつくるのであれば、その志は尊重したい。

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odapeth
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