恩を着せると褒められない悪循環を断ち切るには
娘「言われなくても給食セットを出したよ!ねぇ?偉い?」としつこいので、母「今日はご飯作って洗濯もしたよ?偉い?」父「今日は出社したよ?偉い?」と恩着せがましい家族になった。
みんな偉い!!!
去年、我が家であった他愛ないエピソードを思い出すきっかけになったのは、社外でお手伝いしている接客だった。
大人だって褒められたい
いろんな人を相手にしていると、褒められたい欲求は大人だって変わらないことを目の当たりにする。
以前に書いた、お酒を奢る人の中には傍若無人になって驕る人がいる話にも通じる。「俺が出してやったんだから」と言葉にしてしまう人がいるのだ。
発言としては我が娘の給食セットと同じレベルで、嫌いじゃないんだけど「惜しいッ!」「残念!」という気持ちになる。「誰のおかげでメシを食えると…」レベルの残念さだ。
反対に、凄いのに凄さをアピールしない人は「粋だなぁ」という評価になる。自分から言わなくても、周りの人が評判を広めてくれる。
行動をする尊さの先に、恩を義せない粋さがある
恩を着せない境地に至るには、「俺が偉いことは当たり前なので言葉にするまでも無い」というくらい図々しいまでの自信を持つ必要がある。
では、どうすれば確固たる自信が得られるのか?「偉いね」という言葉をたくさん浴びることで、自分が偉いんだという確信が持てれば、催促する必要はなくなるんじゃないか。
さらに言えば、「俺は存在しているだけで認められている」と確信できれば、肯定さえ無くても堂々としていられる。
そうなるためには、大人からのまなざしを受けることが必要だと、佐々木正美先生が書籍「子どもへのまなざし」の中で主張されていた。子育ての本だけど、年齢に関係なく愛が足りなければいつでも子供からやり直すのが良いとも書いていた。
いずれにしても、途方もない愛情と胆力で接することが必要になる。
誰が愛情を注ぐのか
恩を着せるような人に「偉いね」と言うのは気が乗らないもの。褒められることを求めて恩を着せると、むしろ褒めてもらえなくなる。ちょうど、喉乾いて海水飲んだら余計に喉乾くような悪循環に陥る。
人の良いところを見つけて褒めるのはスキルも必要になってくるし、気が進まないことをやるのは気疲れする。だから、キャバクラのお姉さんがそれなりの対価を手にする。大人になったら無償では得られないサービスなのだ。
では、すでに悪循環に入っている相手に対して、どのように接するべきか。根本的な解決のためには、根気よく愛情を注ぎ続けることで自己肯定・自己承認ができるようになること。
でも、よほどの情が無い限り、赤の他人にそこまでやる義理は無い。関わらなくて済むならば、恩着せがましい相手から距離を置いて関わらなければ、イラっとすることはない。
胆力が求められる役割を引き受けて自己肯定・自己承認を育てるのは、子育てのうちに家族がやっておくべきことなんだろうなぁと思う。
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