野原ゆく
綺麗だね呟いた手に野の花がつままれている 時が止まった
サイコロを他人任せにしておけば落ちても転けても痛みなどない
おススメをゴリ押ししてくるサブスクにアタシの澱の何が分かるか
逆剥けに気付いて撫でている最中逆撫でされてキレて滲む血
木札下げ古木に開く花下で生きる野の花季節を謳歌し
「あの人はあの子のもの」と紐付けし春がまたぞろすり抜けてゆく
風に乗る綿毛に化ける蒲公英になれたらなんて思うか桜
草の香を胸いっぱいに吸い込んで微笑む足が踏みしだく草
願いとか聞かれてもねと首傾げ今日も変わらず咲き散る桜
雨垂れを受ける葉影に今日もまた薄く小さな何かしら咲く
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ボタニカを読んだからというわけでもないけど、他との区別のためにあるのが名前。
名前がないものなんてほぼないのかもしれない。こっちが知らないだけで。
だってほら、食パンの袋を止めるアレにだって名前はあるし、人工的なモノにはたぶんすべて名前はあるんだろう。でないと作りづらい。
自然のものも、人に見つかった時点で名前がつけられてる。星だって石だって目には見えない小さなモノにも。
ボタニカにも、新種発見の話が出てくる。まだ誰にも見つかってなくて名前が付けられてないモノは第一発見者に命名の権利があるから、植物を細かーく観察して仲間を探して同定して…被っていないかの確認作業ものすごい。
よく歩きに行っていた頃、植物の名を知るためにはどこを見ればいいのかを教えてくれていたのと同じようなセリフが出てきてマジで驚いた。彼女に話しかけられてる錯覚まで起こるほどに。
どんな場所で育ってるか、花も葉も形や厚みと質感、茎へのつき方や数、蕊も数や形や向きに、茎は高さや太さにこれも質感と分岐の仕方などなど、たくさん。
花のアップだけでは種は分からない。名前を知りたければ全体像と各部の特徴の写真があればだいたい分かると言われた。そのせいか今でも葉っぱの形をみる癖が少し残ってる。ま、植物の名前までは相変わらず1人で辿り着けないけど。
彼女と歩いた色んな道と景色を思い出しながら、ボタニカを読んだ。
幹に木製の名札をぶら下げてる梅や桜も見かける。○園と言われる花見が目的の場所はたくさん種類がありますよってことで掲げてるんだろうから、やっぱり知られるために名札はあるんだよな。
知られることと知られないこと、どちらが幸せなんだろうなんて、きっと誰にもわからないんだろうけど、そんなどうでもいいことをぼやっと考えたり、名札を付けてるってことは、所有者がいるってことなのかな?と、空き地に咲く小さな花を見て思った。
家の近くに謎の区画がある。桜や梅に季や木蓮の木があり、水仙や彼岸花も咲く。ただ下草が刈られた気配はあまりなくて、夏には朝顔の群生地みたくなってる。所有者がいるのかいないのか。
四季折々の花が風に揺られているあまり手の入ってないこの区間を見ると、なんだかちょっとほっとする。夏手前頃、ずさずさと下草を踏み分け入りたい衝動が湧き上がる。今のところ衝動だけで実行はしてないけど…
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