見出し画像

割れた2つのコップ

ヒビの入ったコップ2つ並んでる。たぶん、マグカップだろう。寸胴のフォルムに持ち手が一つ付いている。
再利用されたのか、中には土が入っていて、飲み口の方に花が見えてる。

一つのコップが呟く。
「こんなヒビが入るまで使われて、最後には汚い土を入れられて草を植えられてしまった。」

もう一つのコップが呟く。
「長い間気に入って使ってくれて、ヒビが入ってしまっても捨てないで、こうして綺麗な花を植えて毎日眺めてくれている。」

大筋は、こんな感じの話。
小さい頃、我が家にあった本の1ページ。
それぞれコップには、笑顔と怒った顔が描かれていた。

物事は、受け取り方でいくらでも変わるってことを言いたいだけの、子供用の教育絵本だったのかもしれない。
他のページは全く覚えていないのに、このページだけは今でも鮮明に覚えている。なにかある度に、思い出す場面。ムカついた時とか、腹が立った時とか(あ、一緒か…)。

この絵を思い出して、自分はこう思うけど、目線を替えれば違うかもしれない…と。

自分の人生の中心にいるのは、自分。どんなに頑張っても、同心円の人間などはいない。重なる部分がたくさんあっても近寄りがたい人がいれば、ほんの数ミリかすってるだけでも、グンとお近づきになってしまう人もいる。

ソーシャルディスタンス(ホントは、ソーシャルディス何とかっていうべきだっていう説もあるらしいけど)が言われるようになって、早数か月。
前後左右2mの距離を取ったとしても、ヒトについている目は2個。
トンボやカメレオンみたいに視野は広くない。背後や斜め後ろは見えないし、そんなところにまで、神経を張りつめて生活できない。

前から来る人に迷惑を掛けないように、日傘をスッと避けた時、後側に居た人に当ててしまったとする。故意じゃない。でも、現実に日傘が当たった人がいるわけで。
何処まで状況を把握しているかで、抱く気持ちも変わるだろうけれど。
お相手にも事情があると、お互いペコっとお辞儀をしてやり過ごせる時もあれば、傘を当てられたと気分を害されて終わる時もある。そうなると文句や捨て台詞の一つぐらい吐かれるかもしれない。

最近、そんなことを考えながら、道を歩くことが多い。些細なことで苛立ちたくない。(いつも、些細なことで苛立つから思うわけで…)

怒った顔のコップにはなりたくない。

目に見える現実世界がそうなら、感覚の、内側の部分も似たようなものなんだと。同心円の人なんていない。小さな重なりが連なって、世界は繋がっているんだと。


苛立ちは、自分の中で共鳴して増幅するだけ。文字は目から、声は耳から。

ペコっと軽くお辞儀をしてやり過ごせる人になりたい。なれればと、日々精進中。

同居人は、子どもに喧嘩を売る大人はいない。怒るってことは自分が弱い立場にいると認めているようなものだと言う。ま、近頃は、子どもにも喧嘩を仕掛ける大人もいるようだけど…。

♪まぁるい物も切りよで四角。
…母が昔よく言ってました。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?