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#3 介護する側からの書き物は多いけれど、介護される側に立った書き物は少ないことに気付いた。(自己紹介のようなもの)

箇条書きのプロフィールと違って自己紹介の文章を書くのはムツカシイですね。
経歴を書こうとすると、どうしても自己肯定感ある内容になりそうで、「なぜ、あの時、その選択をしたのか?」を説明する際も、肝心なことを隠しながら書きそうで。

連載「60代からのシングル人生を探る」をこれから読んでくださる方のために、3回目にして、自己紹介を書いてみます。
でも、不都合なことをさらけ出すには、まだまだ人生修行が足りてないものですから、幾分割り引いて読んでいただけると幸いです。
(本当はしくじり先生ができそうなくらいなんですから!)


■38歳でフリーランサーになる

二十歳で音楽大学を中退し、情報誌『ぴあ』の1年間契約のアシスタントに応募してコンサートページの編集の仕事をしたのが働き始めです。
1年契約だったので、1年後に就職先を探す必要がありました。
入社したのは、静岡に本社がある株式会社すみやというレコードや楽器販売の会社です。
私は東京・新宿店(新宿野村ビル地下1階にありました)に配属されました。

しかし、次第に音楽を作る仕事がしたい気持ちが強くなってしまい、当時「転職は24歳まで」と言われていたこともあって、入社4年目に転職を決意します。求人情報誌で音楽制作会社を探すと、CM音楽制作の株式会社サーティース・ミュージックが制作の仕事で人材を募集していました。
面接を受け、入社します。
その後、グラフィックデザイン会社に一時期在籍しますが、30歳の時に、サーティースで同僚だった人が独立するのに誘われて創業に協力。
CM音楽制作の仕事を中心に、38歳まで勤めます。

フリーになったきっかけは、クライアントのなかに出版社があって、出版企画を出したところ通ってしまい、自ら書く羽目となり、処女出版が実現したことです。
バブル崩壊後で広告業界が不況になってもいて、自分も独立して自由に仕事をしてみたくもありました。

本を出したとはいえ、ライター一本でやっていきたいというほどの、強い意思もやれる自信も正直あまりありません。
そんななか、小・中・高校の音楽教科書の編集をお手伝いする仕事が定期的に舞い込みます。
その仕事に携わり、音楽教科書の内容が、唱歌やクラシックばかりだった昔とはずいぶん変化していることを知り、そうすると学校の音楽の先生を輩出する音楽大学のカリキュラムも変化しているのかな?と興味をもち始め、音大を中退しているという後悔もあったので、もう一度音大に向き合いたいと音楽大学に焦点を当てた事業を考えました。

まず音楽大学を紹介する本を書き、次にインターネットで音大検索できるサイトを作る計画を立てます。
複数の音大にコンタクトを取って先生方と音大生に取材をさせていただき、音大を志す人向けの「音大ってどんなところ? 音大受験するにはどうすればいい?」を紹介する著書『音大志願』を発表します。
続いて、楽器等の専攻や様々な条件で全国の音楽系大学を検索できるコンテンツと、各界の音大出者身にインタビューする記事を載せた、「音楽大学検索サイト GO音大(音大へ行こう)」というサイトを作りました。
このサイトは閲覧してくださる方も多くいて、各音大からも宣伝になると喜んでいただけましたが、1人でデータ入力と取材をする日々が続くばかりで、肝心の収益を得る方法をなかなか見出せないまま、生活費を稼ぐためにライターの仕事を何でも引き受けるような毎日を送ります。

そんな生活が、父に認知症が疑われる症状が現れたことで一変します。
フリーになってから9年目の47歳の時です。


■一般的には勧められない介護のスタンスを貫いてしまう

父が77歳の古希のお祝いを盛大に行った翌日、母から父の様子がおかしいと電話が入ったのです。
親も私も東京に住んでいたため、私はすぐに実家に駆け付けました。
直感的に、昨日までの父とは違う雰囲気を感じ取ります。(前日の古希のパーティに、私も出席していました。)
その日は自宅に戻りましたが、翌日から「お前、今度はいつ来るのか?」としつこく聞く父の電話攻勢が始まりました。
これはもしかしたら認知症かもしれないと不安になりましたが、その心配以上の事態が起こります。
父に金銭問題があることが発覚するのです。
高齢の母一人では、父に対応することも、父が抱えている問題を解決することも無理だったため、離れて暮らす兄も呼んで家族会議を開きました。
兄が仕事を休むとか、ましてや退職するという選択は考えられないことから、フリーで働く私が父に関するすべての問題を引き受けることになります。

こうして私は、仕事を続けながらも、最優先課題は仕事から父の世話になりました。
自分のベッドや私物を少しずつ実家に送って通い介護のような体制づくりをはじめます。
一般的に通い介護とは、自宅から実家などに通うものですが、私は実家に住んで職場である自宅に通うことにしたのです。
こうすれば、仕事関係のものを実家に持ってくる必要がなく、日中は仕事に集中できるからです。

父の金銭問題については、家族全員で公証役場に相談に行きました。
父にはまだ判断力があったため、公証人から、将来を見据えて今のうちに親と子で「委任契約及び任意後見契約」を結ぶ検討をしてはどうかと勧められ、父もそれを望んだことから、兄と私が父の状態に応じて将来、父の任意後見人(成年後見人)になれるようにしたのです。

父は、アルツハイマー型認知症ではなく、前頭側頭型認知症(ピック病)という診断を受けました。
この認知症の場合、記憶が薄れるとか認知機能が低下する症状よりも、同じ行動を繰り返すとか勝手な行動が増えるといった独特の問題行動が多くなります。
例えば、父は毎日決まった時間に家を出発して明治神宮へ行き、決まった時間に帰ってくるのです。
帰り道がわからなくなるようなことはありませんでした。
そんな不思議な繰り返し行動は、家の中でも、家の外でも増えていきます。

ある日のこと。
便もれをしていることに気付かない父は、部屋中を歩き回って部屋中を汚すという決定的な出来事を起こしてしまいます。
ここでようやく、介護認定を申請することになります。
申請から1か月後に要介護1の判定が出たので、介護サービスを検討しようとした矢先のことでした。
今度は脳梗塞を起こしてしまうのです。

左脳の言語野がきれいにやられた父は、失語症になりました。
症状は、しゃべれない、こちらの話が伝わらないだけでなく、物の名前やその目的もわからなくなったのです。
例えば、スプーンを持たせても、それをどう使うのかがわからなくなっていました。

救急搬送されて手術を行い、救急病棟から一般病棟に移って2週間過ごした後、リハビリテーション病棟がある病院に転院することになったのですが、その初日のことです。
父の状態を一目見た病棟長が「うちでは受け入れられません」と宣言するではありませんか?!
病院同士で、父の症状を確認したうえで転院の段取りをつけてもらったはずなのに、「すぐにどこかに再転院してくれ」と言われて、私は「社会の現実ってこういうものなのね」という失望感に駆られます。
失語症にピック病の症状が加味しているため、意思疎通が難しいからリハビリができないという判断と、身体的に麻痺のない父は動き回りたがるため病院では見守りができない、ということが受け入れ拒否の理由でした。

病院から追い出されることに憤慨しましたが、とにかく早急に何とかしなければなりません。
母のケアマネジャー(母は要支援)から認知症閉鎖病棟のある精神病院の情報がもたらされ、父の認知症主治医に相談したところ「その病院は認知症のエキスパートがそろっているので、今のお父さんにはベスト」と勧められたので、入院待ちしている人も多いと聞かされましたが、病院に電話をかけ、「在宅介護の準備が整うまでの期間限定でいいんです!」とすがりつくようにお願いしました。
その結果、2週間後になんとか転院が可能となります。

この段階で、私は完全に仕事を休止することを決めます。

仕事関係者の方々に事情を説明し、自分のマンションを売却し、家庭裁判所に任意後見人(成年後見人)開始の申立を行い、実家に引っ越しをし、ケアマネジャーと打ち合わせをして父が退院する当日から介護サービスが利用できるよう準備を整えました。
この間、約5カ月。

当初、母は「私は、介護はできないから」と言い、認知症病棟の専門医からも「在宅は無理でしょう」と言われましたが、それらを押し切る形で在宅介護を選んだワケは、父を施設に入れると母との二重生活でお金がかかりすぎることに加え、父をこのまま家族と離してしまうのは可哀そうだと純粋に思ったからです。
父の状態を見ていたら迷いはありませんでした。
「私さえがんばればいい」
「仕事を休んでまで介護に専念するのだから、できないはずはない」という、一般的には勧められないとされている介護スタンスを貫き在宅介護をすることにしたのです。

しかし、在宅介護が始まると、私は一睡もできなくて、最初の1週間で音を上げてしまいます。
父がとにかく四六時中じっとしていないのです。
「だから無理だって言ったじゃない」と母は私を責めますし、私も自分が倒れてしまうかもしれないという不安に襲われました。
退院直後の父の問題行動は相当なもので(本人は不安感が大きかったのでしょう)、なかなか、まあ、いろいろと修羅場もありましたが、私はまだ40代で体力も気力もあり、介護のほかにすることもないので、介護保健制度を自分なりに調べてケアマネジャーにあれこれ相談しました。
そして、プロに任せることはお任せし、私はできると思ったことをテキトーにがんばることにして、在宅介護を続けたのです。

父は、最初の症状が出てからおよそ4年後に肺炎で亡くなります。
享年81歳。

私は、仕事を再開します。
51歳になってました。

(ここまでの自己紹介長くねーか?!)


■介護をする側よりも、介護される側の思いに興味が移って

仕事の再開では、最初に介護手帳を作りました。
介護中、自分用に作ってみた介護手帳の使い勝手がよかったので、思い切って商品にしたのです。(2012年『介護する人のための手帳 ケアダイアリー』をAmazonで販売)
今でもそうですけど、専門職向けの介護手帳はあっても、家族向けの介護手帳というのは珍しかったと思います。
(なお、2020年に新訂『ケアダイアリー 介護する人のための手帳』を若葉文庫から発売しております。Amazonや楽天ブックスなどオンライン書店でお求めいただけます。)

ライターの仕事の再開では、音楽関連の編集や取材記事の仕事をいただきましたが、離職前にお世話になっていた編集プロダクションから、たまたまケアマネジャー試験対策本の編集協力の仕事で声を掛けられます。
介護を経験していたので、その仕事内容は取り組みやすく、それが先方にも伝わったようで、そこから介護・福祉分野の担当者から仕事をいただくようになりました。
介護職関連資格のテキストや問題集のお仕事を定期的にさせていただいたおかげで、介護保険制度についてけっこう詳しいライターという特徴を持つことができ、他社からも介護関連のライティングの仕事が増えていきます。
私はいつしか「介護ライター」を名乗るようになりました。

すると、介護の悩み相談の原稿や、私自身の介護エピソードを入れてほしいという依頼が増えてきます。
客観的に考えれば、それは当然の要求なのですが、私のなかでは少し葛藤が起こり始めます。
例えば「介護離職をしない方法について」というテーマをいただいても、私自身が真逆の選択をしているため、素直に書けないことがあったのです。

家族介護について書くというのは、実は、とても難しいことだと思っています。

家族介護は、介護する人とされる人それぞれの長い人生と関係性、お金、仕事、生活環境などをひっくるめ、それが幾重にもなっている段階で始まります。
家族介護で感情的なことが先にきてしまうのはそのためでしょう。
介護保険などの制度利用を伝えるだけでは、家族介護における肝心ことの答えにはならないため、「こうしましょう」という一般的なスタンスを伝えることが最も難しいジャンルの一つが介護のように思います。
介護問題として抱える事柄は、介護そのもののことよりも、介護以外の問題や家族間の要素のほうが大きく影響しているケースが多いからです。

そんな考え方は、民生委員の活動を始めたことも大きく影響しているかもしれません。
父がお世話になった介護事業者つながりで、地域活動をするようになり、民生委員を仰せつかって今年で7年目です。
親以外の様々な高齢者の方々と接する機会を得るようになりました。
元気な人もいれば、介護が必要な人もいます。
経済的余裕があると見受けられる人もいれば、生活に困窮している人もいます。
本当にさまざまです。
しかし、身寄りがあろうがなかろうが、高齢になれば、人は身体的なことだけでなく、精神的にもいろいろと変化が起こります。
母もそうですが、1年ずつ老いを重ねていくのです。そしていろいろな状況で亡くなられます。
そういう様子を見るにつれて、介護する側よりもされる側の思いに私は興味を持つようになってきました。
介護する側からの書き物は多いけれども、介護される側に立った書き物は少ないことにも気づきます。

現在の私は、今年90歳になる母との同居が今も続いているので、まだ親を介護する立場の生活をしていますが、私自身が今年で60歳になります。
こう言ってはなんですが、父や母には私がいたけれども、私には今のところ誰もいません。
将来はロボットと暮らすのもいいかもしれませんが、自分が介護を必要としたときにどうするか、おひとりさまの暮らしの課題は何かについて、深く考えなければならなくなったのです。

父の介護、老齢の母との暮らし、地域の高齢者と接する日々からいただいたものを糧に、独自の視点で自分の「老い」を見つめたコラムのようなものを書いていきたいと思います。

よろしくお願いします。

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