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私の性別を騙って、ケモノの話をする人々~男らしさについて~

男とは、男らしいとは、

一般的に女から文明的な要素を取り除き、

未開の黒人やゴリラの如く、
獣に思考力や理性や体力を近づける事を是とし、

ボス山のモブ猿のごとく漠然とした権威に従属する事に快感を持ち、
それを誇る人達が自らを自認する時によく使う言葉なのだと私は認識している。

『男らしく』が使われるセンテンスを
全て『従属的な社会で生きるゴリラらしく』に言い換えても9割意味が通りそうなので気になった方は試してほしい。

私は、生物学的に男だし、性の対象も女だし、体格もとても平均的な日本の男なのだ。

物質的に間違いなく染色体XYのスタンダードな存在なのに、
『男らしい』生き方は最も恥ずべきだと感じているし、忌み嫌っている。

より数学的な分野の科学者ほど、男が多く占めるし、
棋士のようなシングルタスクなクリエイティビティが必要な知能を競う競技の上位にはほぼ男しかいない。

逆に、体育会系には女が一定数いるし、
体力や力はゴリラの方が、男女差を考慮する必要がないぐらいに優れている。
未開の黒人も50%は女で、ゴリラも半数はメスである。

つまり、獣的であることが男性的なのではなく、
よりAI的であることが男性的であるはずなのだ。

『女だから』という枕詞で容認されている、
答えに悩み苦悩する姿こそ、『男らしい』はずなのだ。
馬鹿みたいに即決するのは、狩り狩られの日々を送るケモノである。

だが、男を自認する声の大きいケモノ人達に『男らしい』という言葉を取られてしまっている。

自分のクリエイティブな思考力も、情けなさを伴った一匹狼的な部分も本来の意味での男らしさとして私は自分を愛しているのに。

マスクの常態化によって隠す権利が拡張したアフターコロナの社会を、
より文明的で科学的な社会に憧憬を抱く男として男らしく愛している。

だが、脱ぐことをいとわない、自分の性的なプライバシーを貶めて喜ぶことを男らしいと自称する人々がいる。
ゴリラも犬もケモノは裸であることがスタンダードで雌も雄も等しく裸に価値はない。

人間が獲得し、先に希少性を獲得することに成功した女たちから植え付けられた、

人間の尊厳における敗者としての烙印を、自らの誇りの様に誇示するのは恥ずかしいのでやめてほしい。

そして、自らの権利と一緒に、男としての私の権利までもを無遠慮に貶めてくれるなと言いたい。

着替えを恥ずかしがらない事も、
優柔不断を嫌い無知性な即断ができる事も、漠然とした権威に文句を言わず従属的である事も、
男性的なのではなくケモノ的な要素でしか無いのだ。

私は私で、私は男なのだ。
だが、男としてのステレオタイプを、ジェンダーを、ケモノに貶めてくれた先人達のおかげで、

私はバリバリの異性愛者なのに、ジェンダーや性自認に疑問を持たなければならなくなり、

男らしさという言葉を聞く度にゲンナリするようになったのだ。

社会的に、私の性自認がケモノであるのか?女であるのか?それともないのか?究極の選択で悩まされることなく、

無遠慮に男として笑える日がくる事を心より願っている。

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