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縛りの研究をした日について

文学フリマに出ます。

緊縛をやっている人はいろいろな人がいる、というのの例を、エッセイアンソロジーの一例として感じて欲しくて素晴らしい1日のエッセイを書きました。
私の場合は一例ですが、こんな感じで、さまざまな関わり方があることを感じていただけたらとおもいます。
本には22人のそれぞれの思いが寄せられています。

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2024.11.10の日記(まい)


どうして緊縛なんだろう、どうしてバスケではなく緊縛なんだろう。友達に緊縛のことをオープンにはしているけれども、家族にはそこまで言ってないため、楽しく緊縛したあとは、縄跡を愛おしく思う気持ちと、それを隠すのに苦労する気持ちとが毎回出てきて、やはり「どうして緊縛なのだろう」が高まる。
私は生粋のMというわけではない、し、いうほど苦しい縄や痛い縄も得意じゃない。パートナーがいるわけでもないし、特定の縛り手に思いを寄せているわけでもない。自分の体が美しく写真に映るのは好きではあるが、そもそも今美しい体を持っていないし、縛られることをアートとは思っていない。
縄が体を這う感覚が好き、ほんの少し追い詰められて体が限界に近づくのが好き、そしてそれらで楽しくなっているのを見守られるのが好き。多分一番は自分の感覚を縛り手に分かってもらえるのが好き。
プレイ縄はもう久しくやっていないけど、私が好きなのは縄を這う箇所を私の弱いところでたくさんやってくれるひと、私が追い詰められるのを笑って眺めてくれるひとが好きだ。言葉での表現が得意な私だが、プレイ縄で黙って好きに振る舞ってよくてその素直な感情が伝わるのが嬉しい。
でも自分が緊縛に一番誠実に向き合っているなと感じるのがどのタイミングか、ということを考えた時、それは間違いなく「研究縄をしているときに縛り手に感覚を言葉でフィードバックしている時」だと思うのだ。
そもそも研究縄とはなんぞやという方のために説明しておくと、緊縛は一度のプレイで流動的に受け手の体制が何度も変わる。縛り手は通常、その縄の展開等についてのパターンのアイデアをいくつか頭の中に持っていて、型があるわけだが、研究縄とはそれらの型を外れて受け手の感触だったり、手際の良さだったり、縛り手がわの攻め感だったりを追求するジャンルなのだ。


そんな研究縄が好きな私が、最高の体験をした話について聞いてほしい。

ある日緊縛サロンにてくつろいでいたところ、そこにいた縛り手(受け手もたまにやってる)男性が電話口で「んー、目の前にまいちゃんと◯ちゃんはいるけど」と言っているのが聞こえた。縄をしながらおしゃべりする会とかで受け手がドタキャンで不足したのかな、と思いつつ、あまりそういった交流会に顔を出さない私は「行くかはわからんけどね」と思いつつ眺めていたが、電話を切った後の一言で気持ちが大きく変わった。「なんか受け手2人欲しいって、一日中研究してたらパートナーの子がボロボロになっちゃって受け手が足りないことに気づいたらしい」、とのこと。「研究会ならいく」と伝えて、すぐに支度をした。いやでもあのタフな受け手さんがボロボロになるって何時からやっててどんなハードなことをやってるんだろう、という恐怖心を持ちつつ誘ってくれた縛り手さんと共に現地に向かう。

都内の一等地の街並みを進んでいったところで、電話先にいた縛り手さんと合流し、スタジオに向かう。ほどなくして着いたスタジオはおどろおどろしい医療器具が並ぶスタジオだった。緊縛のクリエイターにそのスタジオを貸してくれているらしい。
カメラとライティングと背景と吊り床のみを使っていた。
そして、縄跡がびっちりついた受け手さんがへろへろの顔でそこにいた。へろへろの顔でも可愛いなと思いつつ、パートナーさんの縛り手から今日の趣旨に着いての説明を受ける。要約すると、「縛られながら、受け手の体勢に選択肢の余地があるある状況で、でもどの選択肢をとっても苦しさのある縄」について研究しているとのこと。ゆくゆくは緊縛雑誌に数ページにわたって特集をしていくということだった。そのうちの一つのパターンについて今日は極めようとしていた。
先日のしばけん(縛りの研究会)にて「つきそうでつかなくて苦しい縄」をほんの少しやった際に非常に暴れ回り大いに消耗した私は大歓喜だった。大歓喜なのを特に顔には出さずにそのまま説明を聞く。
パートナーの2人によるデモをしてくれた。

何縛もしたであろう縄跡だらけの受け手さんの体に、縄をまたかけていく。2人はコミュニケーションを取りつつ、「あれ?これ今回めっちゃいい感じじゃない?」といっていて、カメラのレンズを見ながら確認している方も「お、いいんじゃない」とウキウキしている。
サンプル1の状態の私はまだ何がいい感じなのかはなにがなんだかわからないが、いい感じらしい。
後手で背縄をとって足を閉脚で縛って少しつま先を上げただけのシンプルな形が完成し、満足げに縛り手はこちらの観客撮影エリアの方に戻ってきた。
カメラの音、「いいんじゃない」の声、少しずつ追い詰められていく受け手。放置され、自分の体勢を少しモゾモゾと変えつつ身悶えする受け手。苦しげな呼吸音だけが、天井が広い部屋に響く。
後手に回した手が切なげに動き、だいぶ受け手が消耗してきているな、というタイミングで、2分間、受け手以外喋らない状況でビデオを撮ることが宣告される。受け手は体勢を引き続き調整しつつ、かなり苦しそうにしている。2分経った頃だろうか、一段階さらに苦しげな呼吸になったところで、まだ動画は続く。どこが効いていてどこが苦しいのかはよくわからないが、あの呼吸は苦しくて楽しいときの呼吸だというのはわかる。ゾクゾクした。
そして限界まで動画を撮った後、受け手は縄を解かれた。
「いい感じだったね」と互いを称賛し合う雰囲気のスタジオに、もうすでに何度もチャレンジしているという苦労を感じつつ、「他の人でも効くのか再現性がほしい」という話になり、次に私がやってもらうことになった。

さっき見ていた受け手さんの形を思い浮かべつつ、同じ縄筋を辿っているはずなのになかなか効かない。単純に半吊りで腕に効いているだけではなく、前傾で腕にきて、後傾で太ももに、そして背筋を丸めることでお腹に効く縄を作るらしい。
カメラで撮ってあった成功例と見比べながら体の傾きや足の浮きを調整する。私は自分の重心が今どこにかかっているのかを伝えつつ、成功時の受け手さんのコメントも耳に入ってきた。お腹にかかる縄は骨盤上を通ってだいぶ下腹部で、背筋を伸ばしながら締めて固定してもらった。
微調整が進んだ時、ある時途端に「きつさ」がわかるようになった。「ああああこれキツくなりました〜」と叫びつつあれこれと体勢を変えてみる、全部つらい。これか。突然絶望の淵に立たされた。そしてそこから何分間か放置してもらい、縛り手組が「脚の太ももの縄かけるところはなんか下目」などと一般化しているのを傍目に1人で追い詰められていく。「あと何分くらい耐えれる?」と聞かれて「7,8分?」と答えると、「もう少し少し短いといいよね〜」とのことで、改善の余地を残しつつ、私は縄を解いてもらった。

受け手同士、同じ型で苦しくなる再現性が取れた喜びを分かち合う。「私だけに効く縄じゃなくてよかったー」と笑いあう。「自分がされてるだけだとどうなってるのか写真でしかわからなかったけど、人がやってるのみると『こうなってるんだ』ってわかっていいね」、その通りだと思った。

連続しての縛りで、縛り手側もかなり限界そうだったが、もう1人の助っ人受け手でさらにブラッシュアップを図る。
こちらはかなりスムーズに、最初から「いける」ときの体勢で、かなりテキパキと効く縄ができていた。
そしてまた動画を回しての放置タイム。
かなり苦しそうになっていて、その苦しさがわかる今になると見ているだけで身悶えする。3分ほど放置をし、一段と辛そうになってから下された彼女は「校庭をマラソンし続けてるみたいだった…景色は変わらないのにずっと辛くて、キツくなってからラストスパートのハッパをかけられた…」と言っていて、みんなでその完成度を称え合って満足げに笑った。

さて、私を連れてきてくれた縛り手の手があいている。彼は朝から縄会で何人か縛った後だし、この後ショーの練習をするそうだが、一応空いている縛り手にあたる。
「再現性」の名の下に、果たしてあの微調整は言語化できるレベルになったのかを確かめるべく、見てきただけの彼が縛ってみることとなった。
私はだいぶ体が回復していたので体を貸してみた。
後手を取った後、上半身を縛り、足を縛り、お腹をギュッと縛る。
途中途中で極めし者からの修正を受けつつ、脚のかんぬきをキツくしたり脚の縛る位置を調整するなどして、ベストの位置を探る。
ほんの少し縄をずらすだけでキツさがかなり変わるのが面白かった。つま先がつくかつかないかの微妙なラインを攻めたところかなり自重で余裕がなくなるようになり、2,3分放置でキツくなる、の目標もだいぶ近づいたようだった。
解き縄が好きな私だが、もう一刻も早く楽になりたい気持ちが勝つくらい追い詰められた。自分が申し出た微調整で自分が大いに苦しめられる、エゴマゾと呼ばれるジャンルに近い気がするが、望んでこうなったとは思えないくらいつらかった。
おろしてもらってゼェハァ息をする。かなりやり切った感があった。

ここまで再現性が取れたので、ここで会はお開きとなった。

とても楽しく、私の好きな緊縛の営みがギュッと詰まった1日だった。
まず、受け手同士で同じ形についての意見を言い合えたこと。受け手は結構他の受け手の縄の様子をみているし、それによってある程度自分になぞらえてみて苦しさを並行体験することが多いと思う。それが自分だけの苦しみではない共感は何にも変え難いように思う。
次に、縛り手のこれまで培われた叡智が自分の体に宿ること。これは文フリのエッセイでも書いたが、技術や知識をを体で感じることができるのは私的にはかなり萌えポイント。
最後に、自然と自分のやってほしい辛さが自分の口から出てくる楽しさ。自分のしてほしいことに素直になることは、すごく自分を甘やかしているような気持ちになる。そしてそれがすぐに苦しさとして効いてくるから尚更嬉しい。自分を痛めつけているように見えるが、これはとても自分のことを大事にした感じがする、私にとって大事なステップだ。

気分屋な私は、自分が一体何を求めてこんなことをしているんだろうと、迷うことがある。
でもやっぱり、緊縛を本気でやるとすごく楽しくて、自分がこんなに本気になれるものがあるとあうことに救われるのだ。この本気さが続く限り私は緊縛を続けると思う。


エッセイ集の方はもう少し短めで読みやすいものが載っています。

文学フリマ当日にブースでお会いできるのを楽しみにしています。

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