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#649:今井むつみ著『学力喪失 認知科学による回復の道筋』

 今井むつみ著『学力喪失 認知科学による回復の道筋』(岩波新書, 2024年)を読んだ。発売されたばかりの新刊。ちょうど現在準備を進めている仕事に関係する内容が含まれているように思われたので、早速購入して読んでみた。著者の本としては、去年話題になった、秋田喜美氏との共著の『言語の本質』(中公新書)が刺激的だったが、本書もまた、私には大いに学ぶところのある本であった。

 個人的な関心から言えば、私にとっての本書の主要キーワードは、「記号接地」と「アブダクション推論」である。本書との関連で言えば、私の関心は、“私たち心理臨床家は、どのようにして、どのようなプロセスを経て、心理臨床家として必要な力を学び、身につけていくのか?”という問いにある。このような問いを私が抱くようになった背景には、このブログに繰り返し形を変えて書いていることだが、私から見て、“心理臨床の営みの空洞化(形式化)”とでも呼ぶべき事態が、特に新しくこの世界に足を踏み入れてくる新しい心理臨床家たちの間に進行しているかのように見えることにある。

 もちろん、私が時代の変化についていけておらず、私の心理臨床家としての感覚が、現在の社会において要請されているものからずれているのだと言われれば、それは確かにそのような部分があるだろうことは認めざるを得ない。しかし、私がそこで問い返したいのは、その、“現在の社会において要請されるもの”を規定しているもの、形作っているものは何であるのかという問いである。

 本書の第Ⅰ部と第Ⅱ部で調査結果に基づいて丁寧に跡づけられている、小学校と中学校において、基本的な部分での学ぶ力が身に付いていない子どもたちが少なくないという現状は、大学教育や大学院教育の現場においても、本書で取り上げられている問題とは少し様相が異なる部分があるにしても、しばしば見受けられる問題であるように、私には思われる。本書の著者の表現を借りるなら、それは「知識は持っていても、知識の使い方がわからない」状態に相当するだろう。そして、そこから帰結する深刻な問題は、“知識を増やす学び方は知っていても、知識の使い方の学び方は知らない”、あるいはさらに、“知識の使い方を学ぶ必要性を感じていない”という問題である。それは、著者が、AIにおける「フレーム問題」との対比で、第Ⅲ部において触れている問題に、深く関連しているように私には思われる。

 本書における著者の主張の一つは、学校教育における、あるいは広く大人が子どもの学びに関わるうえでの、子どもたちが本来持っていると想定される(さもないとそもそも言語の習得が起こり得ないと考えられる)アブダクション推論をする機会の提供とその推論の力の涵養であると、私は理解した。そしてこの著者の主張は、現在の心理臨床家の養成教育においても、基本的には同様に妥当することであると私には思われる。どういうことか。

 ここに詳しく論じる余裕はないので、簡潔に述べることにしたい。現在の心理臨床家養成において(そもそも“心理臨床家”という呼称の使用頻度は減って、“心理専門職”という呼称に置き換わってきている印象がある)、時間をかけて試行錯誤を重ねつつじっくりと自分の経験と向き合いながら、そこから先行する概念や理論と自分の経験をすり合わせながら学んでいくという、伝統的なプロセスは消滅の危機に瀕しているように、私には思われる。現在重視されているのは、“アウトカム・ベース”の名のもとに組み立てられた、効率重視の詰め込み型の教育である。私には、それは、極端な言い方をすれば(実はそれほど極端とも思っていないのだが)、その心理臨床家自身にもなぜそのようにすればよいかの意味は分かっていないが、効果があることが“実証されている”のでそのやり方を実施し、“効果をあげる”ことができる、そういう臨床家を養成することをよしとする、そういう臨床家になることをよしとする、そういうやり方に見えるのだ。そして私には、それは少しも“よし”とされるようなことには思えないのだ。

 本書の著者の議論を借りれば、アブダクション推論を存分に駆使しながら発見的に学び続けるという過程が、現在推し進められている心理専門職の養成教育には決定的に欠けているというのが、私の見立てである。そのような学びに回り道はつきものであり、時間がかかることはもちろんである。“効率を重視する”という掛け声のもとに、そうした過程をどんどん切り捨てて“専門家”を養成することは、どの程度クライエントの利益になり、どの程度クライエントの不利益となるのだろうか? こうした疑問について、十分な議論も、合意形成も、なされているようには私には思われない。

 私の読み方はいつものごとく偏っているが、日頃自分が感じているモヤモヤについて、少しクリアに考えるための手がかりをいくつも得ることができたことが、本書を読んでの、私にとっての大きな収穫であった。