見出し画像

#643:村上靖彦著『すき間の哲学 世界から存在しないことにされた人たちを掬うこと』

 村上靖彦著『すき間の哲学 世界から存在しないことにされた人たちを掬うこと』(ミネルヴァ書房, 2024年)を読んだ。私がこれまで読んできた著者の本にはさまざまな形で刺激を受けてきたが、本書もまた、私にとっては刺激に富んだ本であった。

 本書のテーマは、大づかみに言えば、さまざまな個人が抱える社会の中での生きづらさが不可視化されていくプロセスと、そのようにして不可視化された人々のあり方に私たちがどのようにして出会うことができるかという実践のあり方と、そのような出会いが私たちの社会にとってどのような意味で必要とされるのかを論じることにあると思われる。

 本書で著者が繰り返し用いるキーワードであり、提唱している概念が、「かすかなSOSへのアンテナ」である。「アンテナ」というキーワードは、中井久夫氏の「アンテナ感覚」への連想を誘うが、実際、その内容には共通するものがあるように思われる。ただし、そのアンテナとしての指向性の質には大きな違いもあるのではあるが。比喩的に言えば、中井氏のそれがより無指向的であるのに対して、著者のそれは少し指向性を帯びているようにも感じられる。それは、ある目的においては強みとなりうるものであると同時に、ある局面においては弱みに転じるリスクをも孕んでいるように、私には思われた。

 俯瞰的に見るのではなく、地上を歩くというモチーフも、本書に繰り返し現れる。著者が本書で取り上げる「すき間」は、私たちの通常のものの見方や捉え方では、その存在に気づかれにくい。とりわけ、既成の概念や制度で身を固めて課題を効率的に処理しようとする身構えのあり方においては、「すき間」に気づくことも、出会うことも困難である。著者が繰り返し指摘するように、概念や制度は、絶えずその外部を生み出し続けることで自身の輪郭を保ち、自身を維持しようとする。「すき間」に気づき、出会うには、既成の概念や制度にとらわれない、頼り切らない、安住しない、開かれた身構えが不可欠になる。

 著者が本書で論じていることは、心理臨床の世界においても、ほぼそのままの形で応用可能であると、私には思われる。違いがあるのは、本書における著者の議論が、国家、社会、家族において生じる「すき間」の問題に焦点化されているのに対して、心理臨床においては、少なくとも私の関心においては、それぞれの個人における“経験のすき間”とでも呼ばれうるものに、よりフォーカスが当てられるという点である。著者が、社会の中で見過ごされがちな、「すき間」に置かれて不可視化されている個人の存在に焦点を当てるのに対し、心理臨床における私の関心は、それぞれの個人において見過ごされがちな、その人自身において「すき間」に置かれて不可視化されている経験の存在(の可能性)に焦点を当てることにある。

 「発達障害」にしても、「トラウマ」にしても、その概念によってはっきりと見えるようになったものがあることは確かである。しかし、何であれ、概念が過剰に適用される(濫用される)なら、それによって、時間をかけてじっと耳をすまし続ければ聞こえるようになったかもしれない“声”が、概念や理論や制度に不当に回収されることで、かき消されてしまうかもしれない。心理臨床の世界において、効果と効率を重視する風潮が強くなればなるほど、そうしたリスクが高まり続けているように、私には感じられてならない。クライエントに固有の、まだ社会においても、専門家の間においても、そしてクライエント自身の言葉でも、まだ形を成しえないつらさや課題といったものが、“既成の言語”に性急に回収されて対処されるという場面が、今社会のあちこちに見られるようになっているのではないだろうか?

 もし、エビデンス・ベースドというものを過度に狭く捉えて、ケースフォーミュレーションと介入手続きが確立されてその効果が統計的な観点から立証されたものに支援の方法を限定するとしたら、私たちは、私たちがすでに知っていて(知っていると思い込んでいて)、効果的な対処法をすでに知っている(と思い込んでいる)問題にしか取り組むことができないことになる(もちろん、リサーチはその限界を越えるために行われねばならないことは言うまでもない)。それでは、「すき間」を“埋める”のに時間がかかりすぎる、あるいは、「すき間」を”埋めた”つもりでむしろそれを拡げる結果を招くことさえあるだろう。

 心理臨床の仕事に関わっていて常々感じるのは、私たちは、クライエントしてであれ、セラピストとしてであれ、常に個別的で未知の事態に出会っているのであり、それを既存の知識や概念や慣習的な言葉の用法を当てはめて“理解したことにする”のではなく、それらをちょっとずつずらしながら、あるいはまったく途方に暮れながら、時間がかかることを厭わず、あるいは時間をかけるより他に仕方なく、それをまずは暫定的につかまえることのできる形にformulateすることに努めることこそが(それが言葉であれ、イメージであれ、あるいは他の媒体による表現であれ)、どのような場合にも欠かすことのできない、基本的な取り組みなのではないかということである。

 基本的であるということは、それが単に初歩的なことであるということを意味しないし、ましてや容易なことであるということを意味しない。初歩的であるとともに非常に高度なことでもあり、容易であるどころか不断の鍛錬無くしては実現できない困難なことである。しかし、表向きはともかく、このことに心からの同意を示してくれる心理臨床家は、私の限られた経験では、残念なことに思いのほか少ない。

 対象としていることや方法論、そしておそらく目指しているものには違いがあるが、著者の関心と私の関心には、重なる部分が小さくないというのが、著者の本を読んで今回もまた感じたことであった。効率や効果を求められることに何らかの違和感を持つ心理臨床家にとっても、本書からは自身の実践のあり方について考え直す多くのヒントを得ることができるのではないかと、私は思う。