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#638:村山正治編『フォーカシング・セミナー』

 村山正治編『フォーカシング・セミナー』(福村出版, 1991年)を読んだ。ずいぶん前に、たまたま近所の中古書店で見かけて買って、ずっと積読状態になっていたのだが、この度、思い立って手を伸ばしてみたという次第。

 編者による「はしがき」によれば、本書は、1987年9月に東京で開催されたジェンドリン夫妻によるセミナーの記録を中心に編集された本であるとのこと。当時の熱気と参加者たちの興奮が行間からこぼれ落ちるように伝わってくる本であった。

 本書の特徴は、セミナーの主要部分の記録ばかりでなく、それを参加者たちがどのように受け止めたのかについての文章がふんだんに、分量的にはセミナーの記録そのものよりも多く、盛り込まれていることにあると言っていいだろう。約40年近く前に、フォーカシングがわが国でどのように受け止められようとしていたのかの一端を垣間見ることができることは、現在の時点で初めて本書を読む私にはとても興味深かった。

 そして、当然のことではあるが、セミナーに直接参加したうえでのちに本書に文章を寄せた人々の間に、受け止め方の差異が見られること、また、表面的には目立たない形ではあるが、そもそもジェンドリンの語っていること、デモンストレーションで実演して見せていることを、どう受け止めていいのかに関する戸惑いや、自覚的あるいは無自覚的に微妙に“日本的に”変容した形で受け止められることで生まれているように見える、ジェンドリンと参加者たちの一部との間の齟齬が、歴史的な距離を置いて本書を読むことができる立場にいる私にはところどころで感じられて、それもまた興味深かった。

 とはいえ、やはり私にとって最も興味深かったのは、ジェンドリンによる、参加者たちの中からの志願者をフォーカサーとした、夢についてのフォーカシングのデモンストレーションの記録である。それがデモンストレーションであるというその場の性格によるところも大きいのかもしれないが、また、通常のフォーカシングと違って夢についてのフォーカシングであったからでもあるのかもしれないが、私には最も意外だったのは、リスナーとしてのジェンドリンが、とても積極的にフォーカサーに関わっていくところであった。

 それは、私の感覚では、相手についていくというよりも、相手の特定の部分に焦点を当てて働きかけてみてその反応を待つことの繰り返しに見えた。そしてそれは、日本語で傾聴という言葉を使うときに、多くの人が思い浮かべるものとは、かなり異なる関わり方であるように、私には思えた。つまり、改めて気づかされたことだが、そしてもちろん言うまでもないことなのだが、カウンセリングおよびそこにおけるクライエントとカウンセラーの関係と、フォーカシングそのものおよびそこにおけるフォーカサーとリスナーの関係とは、ひとまず別のものであるということだ。自戒を込めて思うことだが、うっかりこれらを混同しないことは、重要なことだと思われた。

 また、ジェンドリンがフェルトセンスについてどのように考え、実際にフォーカサーのフェルトセンスにどのように”呼びかけ”て、フェルトセンスとどのような関係をもとうとするのかの実例の記録に触れることができたことは、とても貴重なことだった。特に、そこには、ジェンドリン自身が書いたものを通じてではなく、セミナー参加者および運営側である、日本側の目と経験を通してそれが記録にとどめられていることに、大きな価値があるように私には思われた。

 というのは、おそらくジェンドリン自身が書いたものでは、どうしても、ジェンドリンには暗黙の前提となっていて、明瞭には浮かび上がりにくいものが、このデモンストレーションの記録においては、少し見て取れるようになっているように、私には感じられるからである。

 ジェンドリンが書いたものや、他者によるその解説、あるいは、フォーカシングのやり方についての説明を読むと、フェルトセンスを“見つけ”て、それに“触れ”て、それを言葉にしたりイメージにしたりして、何らかのシフト(ないしは推進)が生じるという形でその過程が進行することが、強調されているように読めてしまうところがあるのだが、本書のデモンストレーションの中でジェンドリンがやっていることは、それとは少し違うものであるように私には思われた。私には、ジェンドリンは、フェルトセンスを性急に言葉にしたりイメージ化したりすることをむしろ戒めているように感じられたのだ。そしてこのことは、私自身を含めて、少なくない人が、フェルトセンスについて、基本的なところで、ジェンドリンの考えを、自己流に(自分にわかりやすいように)歪曲して理解している(してきた)可能性に思い至らしめるのだ。

 上に述べたことは、部分的には翻訳を通じた理解(誤解)の問題であるようにも思われる。このとき、翻訳とは、異なる言語間のことばかりでなく、異なる文化間、異なる生活様式間、異なる身体作法間、異なる生活経験間のことでもあることに、最大限の注意を払うべきなのだと、私は思う。そう考えれば、“異なる”は、外国語と日本語の間、外国と日本の間ばかりでなく、あらゆる個人と個人の間にも適用できる、いや適用すべきことに気づかされる。

 本書の中で、「クライエントのクライエント」というジェンドリンの言い回しが何度も使われているが、この言い回し=概念と、上に述べた私の感想とは密接な関係があるように私には思われる。思い切って言ってしまえば、フェルトセンスは、言葉やイメージにされたときにすでに失われるのであり、フォーカシングにおいて、そして、先ほどはひとまず別のものと書いたが、カウンセリングにおいて、ともに決定的に重要なことは、フェルトセンスに気づき、まずは原理的に言葉にならない、言葉になっているはずのない、そのフェルトセンスを、そこにあるものとして、フォーカサーもクライエントも、リスナーもカウンセラーも、これまで見過ごされ、見捨てられてきた、だからこそけっして性急に言語や慣習という制度に色づけられてしまうべきではないそれを、それがそれ自身の“ことばやイメージ”で(その“ことばやイメージ”は私たちにはすぐには理解できないかもしれないし、けっして理解が及ばないかもしれないが)、何かを“語り”始めたり、それ自身が動き始めたりすることを、できるだけ、そっと、慎重に、しかししっかりと、注意を向け続けることにこそあると、私は思うのである。

 このように考え始めると、まだまだ考えたいことが湧いてくるのだが(例えば、リスナーのプレゼンスの問題など)、一度ここで手を止めて、それはまた機会があれば別の場所で。

 こんな本に偶然(?)巡り会うことがあるから(そう度々ではないとしても)、リアル(中古)書店巡りはやめられない。