見出し画像

#641:池見陽編著『フォーカシングへの誘い 個人的成長と臨床に生かす「心の実感」』

 池見陽編著『フォーカシングへの誘い 個人的成長と臨床に生かす「心の実感」』(サイエンス社, 1997年)を読んだ。フォーカシングに関連する書籍として、最近、村上正治編著『フォーカシング・セミナー』(福村出版)を読んだばかりだが、本書はその『フォーカシング・セミナー』と同時に中古書店で入手したもの。そういう縁もあって、間をおかずに本書を読んでみることにした。

 本書のテーマは、さまざまな現場で、さまざまな目的で、フォーカシングがどのように実践され、どのように応用されているかの具体例を紹介することにあるようだ。全6章のうち、それぞれ複数の執筆者が立てられている第2章から第5章がそのような紹介に充てられている。ユニークなのは、第2章から第4章において、それぞれの章の執筆者たちを交えた質疑応答とディスカッションの様子が収録されていることである。それを読むことで、文章だけからは汲み取りにくいところもある、それぞれの執筆者の考えや思いを知ることができて参考になるし、他の参加者たちからも投げかけられ、問いかけられているる今後取り組まれるべき課題には、考えさせられるところが少なくない。

 最初の章(第1章)と最後の章(第6章)は編著者の単著によるもので、本書全体を引き締める役割を果たしている。第1章はフォーカシングのプロセス、歴史、方法の簡潔明瞭な紹介であり、第6章は編著者が自身の心理臨床の中でフォーカシングを活用するさまざまなやり方の振り返りと考察である。私はと言えば、技法としてのフォーカシングのトレーニングを受けたことはないし、だからそれを技法として用いることはないが、自分自身の臨床で大切にしていることと、フォーカシングやそれを応用したプロセスにおいて生じると一般に報告されていることとの間には、共通するものがあると感じており、そうした点からも、第6章の第4節の「フォーカシングの脱技法化を中心とした心理療法」に述べられている編著者の臨床実践とその姿勢には、強い親近感を持った。

 私が親近感を感じるのは、クライエントのまだ言葉にならない、あるいははじめて注意を向けられるぼんやりとした経験を、既存の理論やセラピストの連想に基づいて外挿的に意味づけようとする(“当てはめ的”と言えようか)のではなく、クライエント自身のそれまでの、そしてその時点での経験と結びついた形で、クライエント自身のやり方で感じられて意味づけられることを待つ(“生成的”と言えようか)姿勢だ。一方で、そのプロセスにセラピストが実際にどう関与するのか、どう関与していると考えて、どう関与すべきと考えるかという点においては、フォーカシングをベースとした臨床実践と、私のような精神分析的思考をベースとした臨床実践との間には、相違があるとも感じられる。それは、単なる方法の相違ではなく、そこで生じるプロセスをどのような概念で理解するのかについてそれぞれの理論が持つ“哲学”の違いであるように、私には思われる。

 タイトルに「誘い」とあるように、本書はフォーカシングに興味関心を持ち始めた人にはとりわけ適した本だろう。それに加えて、私のように、技法としてのフォーカシングそのものの実践とは離れて、クライエントの語りにカウンセラーがしっかりと耳を傾けることで、そこでは一体何が起きているのか、起きる可能性があるのかについて関心があり、そうしたことについて考えたい、学びたいと思っている人にも、本書から得られるものは少なくないだろうと思う。