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#633:河合隼雄著『日本文化のゆくえ』

 河合隼雄著『日本文化のゆくえ』(岩波現代文庫, 2013年)を読んだ。本書は、岩波書店から2000年に刊行された本を文庫化したもの。文庫化の前に、2002年に岩波書店から刊行された『河合隼雄著作集』第II期第11巻「日本人と日本社会のゆくえ」に収録されたとのことである。

 「まえがき」によれば、本書の母胎になったのは、やはり岩波書店から刊行された『現代日本文化論』全13巻(1996-1998年)とのこと。本書は全12章から成るが、その内容から、それぞれの巻に著者が編者の立場でテーマに則した総論的な文章を書いたものが集められているものと思われる。岩波書店のホームページを見ると、「各巻の巻末に河合が書き下ろした論文に加筆して,一冊にまとめた」との記述があった。13巻に対して12章では数が合わないのだが、各巻のタイトルと本書の各章のタイトルを対照させてみると、どうやら第5巻「ライフサイクル」に該当する文章が欠けているようだ。何か事情があってのことだろうけれど、ざっとネットを検索した範囲では調べはつかなかった。

 というわけで、内容は上記の通り、20世紀末現在の日本文化というか日本社会を著者独自の視点から縦横に論じたもの。著者がその専門の臨床心理学の世界に収まりきらない、恐ろしく幅広い視野の持ち主であったことを改めてうかがい知ることができる。著者の仕事の集大成的な性格の本であると言えそうだ。

 著者の本はあまりに多く、気軽に読むことができる比較的くだけた内容の本も多いが、本書はその対極で、中身がぎっしりと詰まった重量級の本である。著者がたどり着いた場所を知るためには格好の本だとも言えるが、その半面、凝縮された内容だけに、著者の他の本に比べると読み通すのにかなりの時間と労力を要する本であると言える。文庫にして300ページ強と、分量が多いわけではないのだけれど。

 私が理解した範囲では、本書を通底する著者の立場は、私たちが生きる現実を二重性(あるいは多重性)の相のもとに捉えるところにあると思われた。西洋近代の自然科学との対決が、著者の仕事を貫く柱の一つであると思われるが、そうした著者の姿勢は、特に本書の後半に置かれた各章に顕著であるように思われる。そうした問題圏を、著者は「宗教」という言葉で総称的に言い表しているというのが、私の読みだ。もちろん、著者が「宗教」という表現で言い表そうとするものと、私たちが日常で使う場合の宗教という言葉の意味は、同じではないことには注意する必要がある。

 例えば、著者は次のように書いている。

 自分自身との関わりを切ることなく事象に接し、そこに自分の存在を超えるもの、あるいは、少なくとも自分の知的理解を超えるものを感じ取り、あくまでそれを避けることなく理解しようとし続ける態度を「宗教的」である、と考える。(p.266)

「11 宗教と宗教性」より

 簡潔で、それほど難しい表現ではないが、ここには非常に重要なことが凝縮されて詰まっていると思う。著者が警鐘を鳴らし続けた、西洋近代的な意味での合理主義の偏重の弊害は、前世紀末よりも現在の方がさらに大きくなっているかもしれない。

 著者は、重要な問いかけと、その問いについて考えるための多くのヒントを残してくれた。現代のAI技術は、問いに対して答えを提供しているようにみえるかもしれないが、それはけっして答えではない。問いに対する答えは、私たち自身が試行錯誤しながら見つけていくしかない。上の引用の中で、著者が「あくまでそれを避けることなく理解しようとし続ける態度」と言っているのは、そのことを指していると私は思う。それを別の角度から見れば、私たちは常に間違い、そこから学び続けるしかない、ということでもあると思う。

 著者がそのユニークな視点を発展させ得たのは、著者の専門が臨床心理学であり、心理臨床の実践家であったことと無関係ではないはずだ。一人ひとりのクライエントと向き合うこと、そして自分自身と向き合うこと。徹底して一人ひとりの人の個別性に向き合うことに努め続けたことが、著者の仕事の土台にあったはずだ。“一人ひとりに向き合う”と表現することは簡単だが、それを実行することはとてつもなく難しい。しかも、そうした態度は合理主義的な考え方からは軽んじられがちであり、実際、現在の公認心理師の公式のカリキュラムにおいて、そうした態度が重んじられているとは私には思えない。

 個別性を重んじることは、そのまま真っ直ぐに、現在の社会の中で重んじられている価値に異議を申し立てることにつながることになりやすい。飼い慣らされ、規格化され、そうして人よりスピードが速いほど、現在の社会においては生きづらさが少なくてすむのではないだろうか。今挙げた特性は、ほとんどの場合にいずれも個別性の対極にある。今や、心理臨床家の仕事も、手取り早く飼い慣らされ、規格化され、人より先に進める普遍的なノウハウを伝授することであるようにみなされ、実際にそうなりつつあるのかもしれない。私個人は、後ろ指をさされようとも、個別性を重んじる立場を譲り渡す気は毛頭ないのだけれど。

 著者は、こうした心理臨床の仕事の意味を、本書のような仕事を通じて、直接的および間接的に、社会に対して発信されていたのだと思う。そうした著者の仕事を引き継いだ人は、残念ながら、私の知る限りでは見当たらない。心理臨床の仕事を相当なレベルで実践することと、その本質を社会に向けて広く受け止められる形で発信することと、その両方の力を併せ持つということは、極めて稀有なことなのだと、改めて思わずにはいられない・・・。

 私には十分な心理臨床の実践力はないし、ましてや発信力はないが、せめて自分の力の及ぶ範囲で、自分が経験したこと、それについて考えたこと、読んだことを、自分なりに咀嚼して、直接接触のある自分の身の回りの人たちに、何らかの形でそれをいくばくかでも伝えることができたらと、その努力だけは惜しまずに続けたいと思うのである。