見出し画像

#645:河合隼雄著『日本人とアイデンティティ 心理療法家の着想』

 河合隼雄著『日本人とアイデンティティ 心理療法家の着想』(講談社+α文庫, 1995年)を読んだ。巻末に、創元社から1984年に刊行された本を文庫化にあたって再編集した旨の編集者によるものと思われる記述がある。調べてみると、創元社版の方は『日本人とアイデンティティ 心理療法家の眼』のタイトルで刊行されている。ネットで調べてみた範囲では、詳細はわからなかったが、文章の収録順が大幅に変えられ、収録された文章につけられたタイトルが一部変更されているようだ。

 著者が「文庫版まえがき」に、「本書は私のエッセイ集であり、心理療法家としての私の体験を通して、おりおりに考えたり感じたりしたことを述べている」(p.4)と書いているように、本書にはさまざまな機会にさまざまな媒体に発表された文章や、講演会やシンポジウムの記録が収められているようだ。残念ながら、それぞれの文章の初出時の記録までは掲載されていない。元の創元社版では掲載されていたのだろうか。(・・・と書いた後に調べを進めたら、一般財団法人河合隼雄財団のホームページに、業績一覧のPDFがアップされており、そちらを参照することで、各文章の初出時とその媒体をある程度確認することが可能であることがわかった。本に収録するにあたって、編集の都合上と思われるが、初出時のタイトルから変更されている例がかなりあることもわかった。このような資料をネット上で閲覧できることは、大変ありがたいことである。感謝。)

 収録されている文章は、その多くが、一般の読者を対象としたと思われる比較的短いものである(一部、学術関係の雑誌に掲載された文章や、学校教員を対象とした講演会あるいはシンポジウムの記録が含まれているようだ)。それらの文章が、「序章 いま日本人に問われていること」、「第一章 日本人の心の深み 生き方をめぐる問題」、「第二章 子どもと大人の間 教育が直面している問題」、「第三章 もうひとつの心の国 魂をめぐる問題」、「第四章 心理療法家の目 社会が直面している問題」と、おおよそのテーマごとに五つの章に分けて収録されている。

 著者の本を読んできた読者にとっては、特に目新しい内容はないと言えるかもしれない。いつもの著者らしい内容であり、文章である。しかし、そうと分かっていても読みたくなる、同じ本を繰り返し読みたくなるところが、著者の本の魅力と言えると思う。本書の元になる本が出版されたのは40年前のことであり、本書の内容にはその頃の社会の様子が濃厚に反映され、当然ながら、その頃の著者の関心のありかとそうした問題への著者の取り組み方の方向性が凝縮されている。「文庫版まえがき」の中で、著者は「文庫版にするにあたって再読したが、もう時代遅れだと感じさせるようなのがなくて、ほっとしている」(p.5)と書いているが、その約30年後の現在読んでも、社会の風俗の変化によって表面的には当てはまらなくなったように見える部分はあっても、その本質においてはけっして古びていない、現在においてもホットな、とはいえ、もしかすると本書に収録されている文章が書かれた当時よりも表向きの社会現象からはより見えにくくなってしまっているかもしれない問題が取り上げられた本であると、私には思われた。

 本書を読んで私が連想したことの一つを挙げれば、現在の社会はますます、時間をかけて問題に取り組んでその問題の根底にしっかりとぶつかることよりも、手際よく問題を“解決”してその成果を数値化して示すことを重んじるようになることで、実際には何も変わらない、何も変えられないという無力感を蔓延させる結果を生む社会になっているのではないかということだ。私には、現在の社会の中で、気づかれにくい形で様々なことが“不可視化”されていく過程が進行しているように思われてならない。それは、スピードや、効率や、効果や、生産性といったものから、最も遠いところにある何かであるように思われる。しかし、近代の終わりが近づいたときに、あるいは大規模な戦争や環境破壊の経験を通じて、私たち人間の、あるいは人間を含む生命の実存のあり方として気づかれ、認識されるようになったものは、まさにそのようなものであったのではないだろうか。私たちの社会は、そのようにして認識され、生きられようとしたものを、十分な反省と吟味を経ることなく、あまりに簡単に投げ捨てようとはしていないだろうか。それによって見失われる生のあり方の可能性は、あまりに大きいように、私には思われてならない。

 著者の考えを詳しく知るには、それぞれのテーマに関する著者の別の本を読む方が目的にかなうだろう。その成り立ちからも、いささかごった煮的な感のある本ではあるが、著者の文章の語り口の魅力を味わい、同時に著者の考えのエッセンスに刺激されて読者ごとにさまざまな連想を引き出される、そうした懐の深い本でもあると思う。