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3月18日 頭がおかしい。決戦。

僕は多分頭のどこかがおかしい。普通でない妄想に取り憑かれている。妄想は中学生の時に始まった。どんな妄想だったかは忘れてしまったが、あの時から不確実なものへの耐性がすごい速さで失われていったのは確かだ。
夏みたい。浮かんだ最低のイメージを何度も反芻する度に、イメージの輪郭がハッキリとしてきて、最終的には僕の眼前に現れる。いや現れているのか。いずれ現れてしまうのか。頭の中で何度検証しようが、実際に僕が痛みを伴うまで答えは出ない。
過去、僕に取り憑いた妄想が、実際に起きたことは今まで一度たりともない。だから怯える。白か黒かハッキリするまで、妄想はいつまでも現実味を帯びたまま頭の中を駆け巡るのだ。

大学時代が一番酷かったように思える。AVをハサミで粉々にした時は、かなりキテたと思う。TSUTAYAに行って、中古のAVを買ってチャリ漕いで、家帰って、いざという時、ふとディスクの中に小型カメラが仕込まれているような気がした。だから見る前に全てカメラごとハサミで切り刻んだのだ。
今では爆笑な出来事である。
活字にすると一層自分でもやばい感じがするが、当時もこれはヤバイと思っていた。思っているのに、小型カメラがないことを検証できないために、ハサミを取り出すことになってしまったのだ。改めて何を言っているんだろう。自分の考えが全て音となり周囲に伝わっていると考えたり、この世のカメラ全てに狙われている気がして、エレベーターに乗れなくなった。しまいには自宅以外で口を開けることが出来なくなった。言葉が漏れているような気がしたからだ。

遠くで暮らしている母親はこんな僕の状態を知って、「考え方は癖。根本から変えなさい。」と言った。
この言葉が何故かスッと入ってきて、それからは自分の脳に殺意を持って接するようにした。妄想を無視、もしくは上から圧し潰すのだ。
「妄想を相手にしない」という型を、脳内ギブスによって思考のベクトルを強制し、正常の型を根付かせるといった感じだ。
妄想を拒絶する脳内ギブスは「集中」によって生まれる。僕は妄想を拒絶するために、映画を見たり、漫画を読んだり、文字を書いたり、ラジオを聞いたり、お笑いを見たりする。
数年妄想を無視したおかげで、型がだいぶ根付いてきたが、今でもなお「集中」が必要となる。気をぬくと、内側の妄想がチクタクと膨らみ、脳内ギブスの軋む音がする。時間を重ね強固なものとなったギブスも、妄想の速度には対応しきれないようだ。
最近ギブスがまた壊れそうな予感がある。妄想を避けるために、音楽を聴いたり、本を読んだり、文字を書いたりするのが不健全な気がして、僕は嫌気がさしている。妄想は僕が幸せだと感じる時に必ず襲ってくる。
いつまでこんなことに足を取られ続ければいいのだろうか。僕は怒っているらしい。
時間を奪われている。不確実なものが怖くて仕方がない。だけど、明日死ぬことだけはありえない気がしている。でももっと生々しい嘘偽りない景色が見たいとも思う。僕は4月中に妄想を確実に殺そうと思っている。そのためにはギブスを外さなくてはならない。バカみたいだけど、数十年に続いている戦いなんだ。勝ちてえ。

今、書いていて思い出した。そういえば昔一度だけ妄想に打ち勝てたことがある。中学の時、日常生活の全てを奪うようなある一つの妄想に襲われていて、神経がすり減る日々を送っていた。目で捉えているものが、重要でなくなる程深刻だった。
塾に行こうと、16時に自転車に乗った。よく晴れていた日だった。
等間隔に並ぶ無数の木々の脇を通り抜け、なんとしに振り返った先に当時住んでいたマンションがあった。自転車を止めて自分が住んでいた部屋を見た。また進行方向に目を戻し、ペダルを漕ぎ始めた時全てがどうでも良くなった。なにかがあっさりした。抱えている全ての問題を把握して、見ている景色が一変したような気がした。それからその妄想は二度と出てこなかった。あれは何だったんだろう。

そうゆえばこの前お母さんが、お前は暇なんだよって言ってた。多分そうだよ。だからこそ真剣。俺はマジなんだ。
引き算したい。ここ最近足すことばっかで大切なことを忘れていた。

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落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。