3月25日 エレベーターが抱える矛盾を全て解決しました!!
今日も特に何かがあった訳でもない。何かがあった訳ではなくとも、書くのが日記だ。そう自分に課している。日々。それが日課だ。
エレベーターから降りるときに、「開」ボタンを押してくれる人がいるが、これは何の意味があるのだろうと今日ふと思った。僕も基本的に「開」ボタンを押し、最後にエレベーターから出る。大体の人が一礼するなり、ありがとうございますと言ったりする。逆に誰かが「開」ボタンを押してくれ、自分が先に出ることになった時、僕もありがとうございますと言う。だが最近は返せと思うようになってきた。僕のありがとうございますをだ。
エレベーター内で1対1の場合、「開」ボタンを押さなくても、出ることができる。それなのに何故押すのだろう。僕が「開」ボタンを押した時、たまに何も言わずに出て行く人がいるが、その場合僕は、そいつの末代にまで呪いをかける。つまり僕は「開」ボタンを押すという行為に対し、「ありがとうございます」と言われるのが当然のことだと思っているのだ。なんて自分は押し付けがましいのだと自責の念に駆られそうになる。駆られしない。そこまで暇じゃない。
では自分が降りる時に「開」ボタンを押さない人を見て、どう思うか。僕は親の顔が見てみたいと思う。非常識な奴だと断定できる。
難しい。「開」ボタンを押す者(自分を含め)に対しては「押しつけがましい奴」、「開」ボタンを押さない者には「無礼な奴」と思ってしまう。大きな矛盾を抱えている。
僕と同じような考えを持つ人が多くいるはずだ。少なくとも「開」ボタンを押さない人間は僕と同じ思考だろう。僕も最近は、押す必要がない場合は「開ボタン」に触れないようにしている。
僕と同じ思考の人間が山程いればいいのだが、実際の所そうでもないと思う。何故ならどんな状況下であろうが「開」ボタンを押す人の数が圧倒的に多いからだ。その度に僕は、ああ〜押されためんどくせえありがとうございますと言うのだ。
「開」ボタンを押す大勢の人は、逆に「開」ボタンを押されなかった時、何て非常識な人なの!と癇癪めいたものを心の中に撒き散らすだろう。それは損だ。僕は常識的な人間なので、非常識と思われることに納得がいかない。かといって、ありがとうございますと言われるために、「開」ボタンを押してしまうような人間な訳だから、僕の手によってドアが開いている限り、先に出て行く人の背中を見て、また媚びてしまったといった情のない気持ちになる。
大体こうゆう話をすると、「「ありがとうございます」と言われるために「開」ボタンを押すのを辞めたらいいじゃないですか」という人間が出てくる。阿呆だ。会話がつまらない奴だ。生まれながらにしての消費者。考えることを辞めてしまってる。そうですね。としか言えないような真っ当なことを言われても、そうですねなのだ。所詮そうですね止まりだ。一文字も書けない。
この日記の進行を妨げる存在は、この日記では悪なのだ。ありがとう仮想敵。おかげで行が増ましたよ。
とにかくこの矛盾からどう解放されたらいいかと考えた末、ある方法を思いついた。それは、開閉ボタンを掌で隠すというものだ。
単純な話だ。何故気がつかなったのだろう。答えはいつだってすぐ側にある。開閉ボタンを押しているか押していないか分からないようにしてしまえばいいのだ。
隠しながら、「開」ボタンは絶対に押さない。押してくれた感じがしたなと思った人はありがとうございますと言えばいい。
礼を言われていない僕は実際にはボタンを押していないので、儲けもんだ。押されてない感じがした人は颯爽と出て行けばいい。僕は押していないのでそれはそれで当然の結果だと真摯に受け止めることができる。
発明だ。ありがとう。
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落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。