見出し画像

ほくろを、取る 〜三宅香帆『娘が母を殺すには?』読書感想文〜

17歳の3月に上京した2週間後、新宿の美容外科でほくろを取った。Googleが無い時代、黄色の分厚い電話帳で調べたクリニックだった。上京したらまず行くと決めていた。

「あー、このサイズなら今日、取って帰れますよ。麻酔の時間入れて、そうねー、30分ぐらい。1万2千円。どうします?」医師は至極カジュアルにそう告げて、拍子抜けしながらわたしは「あ、じゃあお願いします」と答えた。ほくろはその日あっけなく消えた。

ほくろはやや特徴的な場所にあった。

「事故とか災害で万一のことがあったとき、このほくろでちよさんだとわかるけん」母はつねづねそう言っていた(彼女はわたしのことを「さん」付けで呼ぶ)。「これは、ちよさんがお母さんから生まれたっていう証拠やけん」母はつねづね、そうも言っていた。

そんな証拠、むしろいらないんだよ、と思い続けていた。わたしはもう、あなたから解放されたいんだよ。

***
「あんたは本ばっかし読んで難しいことばーっかし言っとるけんブスなんよ」母はつねづね、わたしにそう言っていた。優しい母ではあった。

クラスの女子に無視されて泣きながら帰宅しても、ストレスでご飯が食べられなくなっても、そのせいで生理が止まっても、母はいつもわたしを叱った。優しい母ではあった。

ー アフリカには、学校にも行かれんで食べものも無い子どもがたくさんおるんよ?ストレス?何を甘えよっと?本ばっかり読んで頭でっかちやけんそうなるんよ、あんたは!

わたしのしんどさはいつも、アフリカの名も知らぬ難民の絶対的貧困と飢餓の前で霧散し、無いものとされた。わたしはただ、母に、どうしたの大変だったね、と抱き寄せてもらいたいだけだった。優しい母ではあったから。

***
2018年、娘が母親を殺害する事件が滋賀県で起きた。凶行に及んだのは、医学部進学を母親に強要され続け、9年間の浪人生活の末に医科大の看護学科に入学した31歳の女子大生だった。

三宅香帆著『娘が母を殺すには?』は、文字どおりこの「母殺し」事件を引くところから始まり、「母と娘」を主題とした作品を読み解きながら、母と娘の関係性がはらむ病理をあぶりだす。

たとえば、萩尾望都『イグアナの娘』、宇佐見りん『くるまの娘』、川上未映子『乳と卵』、吉本ばなな『キッチン』『吹上奇譚』、コナリミサト『凪のお暇』(以上はほんの一例)。

さらに三宅は、母娘を不健全に密着させる「家庭における父の不在」についても、脚本家・坂元裕二の作品群(『カルテット』『Mother』『大豆田とわ子と三人の元夫』)を挙げて、丁寧に考察していく。

むろん、本書は母親の殺害方法を説くものではない。男子における概念的な「父殺し」、すなわちエディプス・コンプレックスの克服と同様、女子も、つまり全ての「母の娘」も、自己として生きるために母親から解き放たれるプロセスが必要だと提言し、その方法論を探る一冊である。

母の規範を否定したい、抜け出したい。
だけど、母から愛されたい、許されたい。
そのアンビバレントに気づいてしまった「母の娘」たちは進む先を見失って立ち尽くす。そしてわたしも、そんな「母の娘」のひとりである。

***
母親を惨殺した31歳の女子大生は犯行後、母について綴った手記でこう書いたという。

「私の行為は決して母から許されませんが、残りの人生をかけてお詫びをし続けます。」

齊藤彩『母という呪縛 娘という牢獄』

医学部以外の進路を閉ざされ、家出しても連れ戻され、9年もの間(あるいはそれ以上)罵倒され暴力を振るわれ続けた彼女がそれでも、「母に許されるかどうか」という視座から抜け出すことができなかった、その事実にわたしは戦慄する。

「モンスターを倒した。これで一安心だ」
母親のからだを解体したあと、ツイッターに彼女はそう投稿した。それでもなお、きっと彼女は母親に許されたくて、そして、愛されたかったのだろうとわたしは思う。わたしにはわかる。

***
新宿の美容外科に飛び込んだあの日から30年。

母とほくろの話をしたことは、なぜか一度もない。ほくろの ー 娘が自分の娘であるという「証拠」のー 消失に母が気づいているのかどうかはわからない。

だけど、いまだにわたしは、事実を知った母に叱られることが怖い。アラフィフと呼ばれるこの歳になってなお、わたしは、母がわたしを許してくれないことが、怖い。

ねえお母さん、
ねえねえ、お母さん。
わたしは一度でいいからあなたに受け止めてもらいたかった。話を聞いて欲しかった。大丈夫だよと言って欲しかった。

でもそれはもうきっと叶わないから、わたしはわたしの娘たちに、あなたとはちがうやりかたで寄り添おうと思っています。それが、あなたに育てられた娘としてできる精一杯の生きかただと、わたしは信じたいのです。

「母に愛されなくても、これを愛せているから、私の人生はこれでいい」と思えるようなもの。「母はああ言っていたけれど、それはひとつの価値観でしかないから、気にしなくていいや」と気づかせてくれるもの。そんな「他者(モノでもヒトでもコトでもいい)」と出会うことが、重要なのである

三宅香帆『娘が母を殺すには?』p.216

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集