ほんのちょっとの「と」
ナイナイ岡村の件、時代の流れかな。
コレ、今回は時代の「もう一歩先」いって、
本人、謝らない方がいいと思いますね。
でも謝らせるんでしょうね、
芸能人を生贄に。
最近はね、不快感を極力
排除していく「ご時世」
そういうチカラが意図的に働くんですけど
批判してる人は一定数いるから、
しょうがない。
どんな時代でもそうで、
相容れない人たちはいる。
でもそういう人たちは、
矛盾を感じているはずです。
排除しようとしてるのに、
どんどん増えていないか?って。
逆に探しちゃうくらいか(笑)
干渉しすぎなんですよね、
できるようになっちゃった、
干渉できすぎくんです。
以前、「ジャイアンとノンジャイアン」
というネタで書いたこともありますが、
ジャイアンじゃない人たちが
あらゆる世界で、文字や文章、
知識や技術、正論を使いこなして
自分のほうへ導いていこうとするんです。
むかしはみんなが意見を
表明するということは
できなかったので、
全体をまとめやすかったのもある。
情報を集めるにしても、
書物を読んで理解するとか
人と実際に会って話をするとか、
すべてに時間がかかったもの。
いまは、
ボタンひとつ、クリックひとつ、
そして、タップひとつ。
情報が簡単に入るぶん、
時間をかけて考えながら
意見を互いに熟成させていくことを
しなくなってしまった。
ソシャクして自分と他者と立場を考えて、
落とし込んでそのあとのことまで視野に入れ
その考えを熟成させて答えを出す。
すぐに反応してしまうことで、
これが、できなくなってしまう。
考えることをしなくなった。
熟成させていくことで、異なる意見に
目を向け、気づかなかったような
別の視点も得られる。
その自分の正しい意見を叶えた、
その先を見えているだろうか。
現代は、ワタクシでさえも(笑)
こんな片隅であっても
意見を表明できるわけです。
意見が立ち、言葉すら独り歩きする。
勝手に持ち出されて、判定されていく。
これはどんな人でも、そういう環境に
私たちはいるんだ、ということ。
意見を言うなというのではない。
意見を取り上げすぎるな、ということ。
意見を取り入れすぎるな、ということも。
そして他人の意見を時間をかけて考え、
全体への影響力をちょっと想像してみよう。
ということだと思います。
以前は意見が上がってくるのも
少ないぶん、闘わせることもできた。
しかし意見が立ちすぎてしまい、
いまは収拾がつかなくなってきている。
そして人は流されやすく、
自分の意見を持てず
心地よいもの、言い分、論理へ流れていく。
全体をみれば、この流れがマズイことは
みんな、気づいているけど止まらない。
人間は、どこかで心や体に溜まるものを
解放したり、逃がしたりして
バランスをとらなければならない。
しかし、矛盾するようになっていて、
意見を立てて、叶えようとすればするほど
私たちは自らを窮屈にしていく。
自らその流れに堕ちていく。
失敗もする、間違いもする。
しかし寛容になれない流れのなかではエサ。
ただのガソリンにしかならない。
不機嫌なシーンをたくさん生んでいく。
「許さない」とは(自分の感情)
許すことができない、ということ。
「許さないと」とは(自分から社会全体へ)
許していかないと、悪いことになっていく。
自分を通り過ぎた後の、
その先の事態へ目を向ける。
こんな「と」だけで変わる。
ほんのちょっとの「と」で変われるんです。
コロナのこともあり、
いつも以上にストレスが溜まるけれど、
私たちはそのストレスの逃がし方を
通常と、平和な日常と同じ心理状態で
判断してしまうんです。
ほぼ軟禁状態のゴールデンウイーク。
いかに普段、無意識にストレスを逃がせて
いたのかに気づくと思います。
そして、ストレスに直面して
それも受け入れるしかないならば、
人間がどう変わっていくのか?
これはものすごく興味深いなと思ってます。
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