島国視野が繰り返す罪。
当たり前なのかもしれないが
日本人は自国を俯瞰で見るような
想像力に欠ける人が中枢に多い。
あえて言うなら島国視野かな。
自分たちがやっていることは
自分たちでしか確認できずに
自己評価に近い形が日常化する。
自分たちの視野だけでは
狭いのだと思わなくなる
というか、狭くなってしまう。
どうしても見落としてしまう
視点が必ずあるから
外から見た人の意見を
むかしは聴いていたのだろう。
ただ、自分たちでもできるとなると
他の意見を聞かなくなる傾向が強い。
自らの保身との闘いでもある。
孤島なんですよ、日本という国は。
その地理的な、あえて弱点というが
弱点を客観的視点で見れなくなって
自国の中に独自性、根拠を強引に見出し
閉じこもったように正当化していく。
これが陸地が続いていて国境を
他国と接している国であれば
また違うのだろうと思う。
イギリスはそういう意味では
同じだが、あそこも細かく分けると
サッカーの別の代表があるように。
イングランドやスコットランド
ウェールズ、北アイルランド。
そういう意味では隣国と触れている。
日本が鎖国的になるのは
地理的影響が否めないとしても。
もっと頭使わないとダメだし
でも広い視野で別の国の考え方を
参考にすることも、ほぼない。
あれだけ真似するのが得意なのに
自分たちに都合が悪いとためらう。
心のずっと奥にあるのは何だ?
自国の実績への信頼というか
尊重路線はある意味逃げでもある。
参考にしたほうがいいんだけど・・・
と言いながらも、考えを曲げない。
決めるのにためらい、時間をかけ
慎重に慎重を重ねて様子見してる。
それでいよいよ動かそうとするが
その時点でホントはもうかなり遅い。
さらに反発を喰らって
元に戻そうとするチカラが
はたらいて引き戻されてしまう。
この繰り返しを時代問わず重ね
やるべきことをやると言って
速度の遅いタイミングのズレた
取り組み方を始めてしまう。
いつまで経っても決まらない。
決められやしないまま文句出ても
じっと耐えることになり国民も
ガマンを美徳に感じてやり過ごす。
わかっているのにやれない。
そこに責任が伴うしくみの中で
古い枠に、自分から入り込んで
その枠の中で作業し始めるから。
この国はそうやって内部で
熟慮しながら高めていって
どうにも打開できなくなって
いっとき壊して立て直しをはかる。
そしてまた慣れてくると
同じループにハマっていって
その繰り返しの罪を重ねる。
既存の枠への依存や信頼感。
いや、信頼ではないだろう。
全然、信頼していないが
仕方なく従って動かす意識が
各自、悪い意味で染み付いてる。
結果的にやることが想定内すぎて
なんのワクワクもなく後追いを
誰かが動かして大丈夫と確認して
はじめて全体を動かしていく。
その全体が確実に動いていくと
惰性的に安定して動いていく。
途中では止められなくなる。
確実に着地点を想定内で見つけて
安全に最小限の効果であっても
着地して満足している感じがする。
途中で今度は止まれなくなるのも
仕方ないみたいに続けてしまう。
あまり意思の強さを感じない。
本当にいいことなんだろうか。
いいとは思っていないだろう笑
それでも惰性的に流れにライドオン。
タイミング的にホントの
ベストタイミングより遅く
5歩遅いタイミングで始め
惰性的に安定して動いていくが
その差は一向に縮まることはない。
正規のタイミングも刻一刻と
内容含めて変化していくけど
その変化にもすぐには対応せず。
同じようにプラス5や10になり
差が開いていくのを自覚しながら
また文句つけながらも従うだけで。
これをやってたらダメなのも
自分たちで十分承知しているのに
権利がないから誰もできない。
JFA(日本サッカー協会)も同じでしょ。
問題が発覚してからその対処を表明する
政治家と同じことをやっている。
PKの練習をルールとして
決めてやっていこうと。
事件が起こった、そこから事件を
起こさないために取り組もう。
この意識だけではダメなんだと
わかっていない。
4年後、また負けた。
これが足りなかった4年かけて
その課題に一心不乱に取り組み
追いついていこうと練習する。
だが、世界は4年後
いまと違う景色になってた。
いつも古いバージョンを
追いかけては追いつかない。
これを繰り返すのだろうと思う。
ボルダリングのようなものとすれば
日本の取り組み方や意識は
つかんで進む手をかける位置が
違っているから届かないんです。
これはもう先見性のない証拠。
4年後から逆算する意識がない。
もっと先に指をかけないと
届かないんですよ。
階段が10段あるとすれば
たとえばいまは選手が7まで昇り
監督は4までしか昇れていない。
監督はこれから10まで上がれるか。
選手は10を目指して日々研鑽する。
監督は孤島で10になれるのか。
さらに言えば、階段が10だと
思ってたものが世界の最先端は
次4年後いまの15が10に
なってしまっているかもしれない。
こうやって離されていくのを
続けているのを自覚できているのか。
都会の流行りを後追いで田舎が
うちでもやってみるかって感覚で
真似パターンで大丈夫と思っている。
現時点の手応えは4年後は
実は、まぼろしかも知れない。
こうするしかないと思っているが
それだけが正解ではないんです。
ここをこうして差を埋めれば
追いつけると思ったら
頂上はもっと先に延びて
高く高く上がっていた。
森はうつくしく保てていても
人柄が良くても追いつけず
足手まといになるのなら。
たぶんこれが必要と思い込んでいる
その基準やいまの発想、常識で
判断してもいつまで経っても
追いつけやしない。
いま思い描く新しい景色は
目測を誤ってはいないだろうか。
あとから謝ることをまた
繰り返すだけではないのか。