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本物の価値を知っている女

良質な物の価値を知るには良質な物に触れ続けなくてはならない。
そんなことを学んだ夜だった。

「ねぇ、次は蒼月に行こうよ。あなたが大好きなでバーでマティーニを味わいたいの」

表参道のイタリアンを出ると加奈子は僕に寄り添いながらそう言った。

いつか加奈子と蒼月のカウンターでカクテルを味わいたい、という想いが叶う嬉しさを隠しながら僕は言葉なく頷いた。
そしてわざわざワンメーターの距離をタクシーで乗りつけて、成り行きというには出来すぎたように僕らはスマートに蒼月のカウンターに並んだ。

この上ない高揚感と適度な緊張感と共に加奈子はギムレットを、僕はジントニックを味わった。夜はまだ長く、加奈子はこれからマティーニをオーダーするはずだ。

「とても鋭く美味しいギムレットだったわ。あなたの言った通り本格的なバーね」
「次のオーダーが本番だ。加奈子にとっても僕にとっても」

念願の蒼月で惚れた女の隣で2杯目のオーダーを考えていたら、なぜか007を見た夏のことを思い出した。加奈子と蒼月のカウンターで艷やかな夜を味わう前に、苦い思い出に触れる必要があったのかもしれない。我ながらややこしい自我を抱えたものだと自覚した。

それは僕が過ごした中で最も暑く、そして最も退屈な夏だった。その頃の僕は、清水訳と村上訳で相互に『長いお別れ』を読み、007を一夜で2回見るほど退屈さを持て余していたのだ。
陽の眩しさを恨み、夜の闇に焦がれた哀れな心をアルコールで無慈悲に痛めつけてボトル10杯分のウイスキーを味わっていた苦い日々だ。

そんな夏からかけ離れた蒼月のカウンターで、老紳士がドライギムレットをオーダーするのを聞いた僕は、なぜかテリー・レノックスではなくジェームス・ボンドのことを思い出した。

そして僕は未だヴェスパー・マティーニを味わったことがないと気がついた。

「マティーニを」
加奈子がオーダーすると、バーテンダーは既にタンカレーのボトルを手にしていた。優れたバーテンダーは、我々のオーダーさえも察知する。

「ねぇ、次は何にするの」
加奈子は僕に何かを期待するように聞いてきた。この夜の行く末は次のオーダーで決まるかもしれない。僕の本能はそう理解した。
「ヴェスパー・マティーニにする」
「どうしたの急に」
「気づいたんだ。今まで色んなバーでマティーニを味わってきたけれど、ヴェスパー・マティーニを味わったことがないと」
「そして今夜がヴェスパー・マティーニを味わうのに相応しい夜だということに」
「そう、まさに今日こそ相応しい夜だ」

バーテンダーは僕らの会話が落ち着いたのを見計らい、丁重に尋ねてきた。
「ヴェスパー・マティーニが名付けられた当時のレシピと現行ボトルでのレシピ、どちらがよろしいでしょうか」
「当時のレシピ、キナ・リレでお願いします」
僕が答えるとバーテンダーは、その空間に溶け込むように静かにメイキングに取りかかった。
右手をゆっくり回転させながら、時おり氷と液体の調和を確かめるように鋭く視線を光らせるバーテンダーの前で、加奈子はマティーニのオリーブを口にした。

「当時のレシピのヴェスパー・マティーニ。わたしは一度だけ味わったことがあるの。後にも先にもあんな味わいに出会えることはないと思う。そして今夜はあなたがそれを味わうのね」

加奈子は本物のヴェスパー・マティーニを知っている。
ヴェスパーと名付けたくなるような上質さと透明感から漏れる官能。そして鋭さを兼ね備えた加奈子は、良質な物の価値を見極めることが出来る女だ。
そして加奈子は、キナ・リレの価値を、またヴェスパーマティーニの価値を知っているはずだ。それは少なからず僕の心をかき乱したが、強い酒を味わうには丁度良かった。

加奈子はオリーブなき後のマティーニを味わっていた。その姿に見惚れないように僕はバーテンダーの所作に視線を留めた。

やがてヴェスパーマティーニが現れると加奈子は僕以上にその目を光らせた。

一口味わうと円やかなジンの僅かな隙間からキナ・リレが感じられた。
神経を張り巡らせてマティーニとの違いを味覚で追いながら、ジンとキナ・リレのいずれがベースなのかと思いを巡らせた。そしてキナ・リレの価値、本物のヴェスパー・マティーニの味わいを探し続けた。

加奈子は横目で僕を見ながらマティーニを飲み干した。

「本物のヴェスパー・マティーニにはたどり着けたかしら」

加奈子の隣で僕は言葉を失った。
ヴェスパー・マティーニを味わうには早すぎたと悟ると、加奈子は無言で頷いた。

アルコールが全身を巡りながらも現実に引き戻されると、マティーニの10倍近くの価格が差し出された。
「キナ・リレ、もう日本では手に入らないの。だからヴェスパー・マティーニは特別なの」
そう言うと加奈子は僕に断りなく支払いを済ませて優しく微笑んだ。その微笑みは僕に何かを伝えようとしていた。まだ僕が知らぬ大切な何かを。そして訪れかけていた艷やかな夜は遠ざかっていった。

カウンターの端では、老紳士が妙齢の女と静かに酒を楽しんでいた。そこに艷やかな気配はなく、互いが好きな酒を自分のペースで味わい、僅かな言葉だけで語り合う嗜みを見た。

外に出ると冷たい空気が僕らを包んだ。寒そうに首をすくめる加奈子の手を取ろうとすると、その手はポケットに隠れた。

「今日はとても楽しかった。じゃあね」

加奈子はそう言うと足早に去っていった。僕は加奈子を追いたい気持ちを必死に抑えて、その後ろ姿が見えなくなるまで見守り続けた。

「またね」ではなく「じゃあね」と言って去る女を追ってはいけない。もう若くはない僕の本能はそれを悟っていたのだ。

加奈子は二度と僕の前には表れないだろう。そういう女であることを僕は知っているし、そんな加奈子に僕は惚れたのだった。

それでも僕は良質な物に触れ続けなくてならない。本物のヴェスパー・マティーニの価値を知るために。

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