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【小説】止揚〈monochrome〉 - 坡嶋 慎太郎【純文学】

あらすじ

止揚……弁証法の基本概念の一つ。あるものをそのものとしては否定しつつも、その中に含まれる要素をより高次の段階で生かすこと。
世界は止まることなく動き続ける。その中に存在する私たちのことなど気にすることもなく。 世界をより良くするために、「私」は不要なものを棄てることにした。そうして、不要なものの消え去った世界で新たに生まれ変わるのだ。 そう、きっと、次の『私』は……。

本文

――止めどなく流れ続ける涙は、あるいは雨にも似ている。

 放課後の校舎、とりわけ老朽化の進んだ旧校舎付近には人気がない。なんらかの用事がある人々は早々に帰宅し、学校内にとどまる人間もそれぞれの活動場所――多くは本校舎やグラウンド、に移動するためだ。ゆえに、授業で使う必要のなくなったこの時間のこの場所は私以外の存在の消えた、私のためだけの世界となる。

 廊下を歩く音の反響が私に癒しをもたらす。カコン、カコンという軽い音はまるで波が満ち引きする音か、置き時計の振り子が弾む音にも似ている。
 時折、私の感性がズレていると指摘する人がいるが、それは当たり前のことだ。まさか、全ての人間が同じ感性を共有しているわけがない。個々は個々でなくてはならない。人はそれを個性と呼び、認め合い、尊び合わなくてはならない。

 窓から差し込む陽の光が暖かだ。嗚呼、なんと清らかな青空か。或いは残酷なほどの純白である。私の心を照らさんとばかりに太陽は私に微笑みかける。私は常に晴れ女だが、それを嬉しく思ったことは一度とてない。
 行きたくもない用事を「天気が悪いから」とキャンセルできる人々が羨ましい。晴れた日の空を見るたびに、私の心は落日のように不確かな色合いとなる。燃えるのだろう、芯にある何かが。

 階段を登りながら、私はまた思索に耽る。思索、などと大仰な言葉を使うのもまた性には合わない。道理など弁えず、私は思ったことを言葉に変えていきたいと常々思っている。それがたとえ不合理であっても、私が思うことこそが私を形作るのだから。

 一段、一段と踏みしめるように足を動かす。同じ動きの連続で人は動く。ゼンマイ仕掛けの人形か、果てはそれを動かす歯車の一つにも似ている。若しや、人生とは階段を登ることなのではないかしら? 階段――この一段につき、人は一年の歳月を経るのだろう。そんな妄想が頭に浮かんでは沈んでいく。

 胸ポケットの中で携帯が一度や二度、揺れていた。電源は切ったつもりだったが、うまく切れていなかったようで。私にはなんら関係のないことだと、そんな気づきも頭の片隅に追いやられていった。

 錆びた鉄の匂いがした。目の前の屋上へとつながる扉からだ。扉、扉、扉。心の中にもまた扉が存在する。それは人によって錆びていたり、磨かれていたり、大きかったり、小さかったりする。それが開くことは決してない。少なくとも私の扉は。だが、目の前の、現実の扉は違う。握ったドアノブからはひんやりとした感触が伝わってくる。私の元より低い体温がさらに冷えていくような気がした。そのまま力を込めれば、ガチャリと音を立てて扉が外界への道を開く。開いた、やはりと思った。いや、私は元から知っていた。だから、此処へとやってきたのだ。

 開け放たれた扉から風が吹き込んだ。私は歓迎されていないようだった。だが、そんなものには慣れていた。まさか、自然までもがそうとは思っていなかったから少し苦笑してしまった。

 一歩、前へと踏み出した。路面のような床はその音を変えていた。あぁ、外だ。ぼんやりと私は解放されたような心持ちになった。相変わらずの快晴だ。今日くらいは雨でもよかったのに。

 フェンスにそって、私は扉のある場所の反対側へと移動した。「ここにしよう」と小さく溢れた。フェンスを乗り越えるのには少し手間がかかった。なにせ、落下防止のためについているのだから。

 一つ深呼吸をした。下を見れば、大地が見えた。点在する緑色が生命の息吹を感じさせた。世界は止まることなく動き続けている。その中で、私たちは生きている。まるで鳥籠の中の鳥か。使い古された言い回しだ。私には似合わない。

 もう一つ、深呼吸をした。決断のためだ。いや、私の心など最初から決まっていた。目を瞑れば、暖かな白が映った。白一色か、そうではないと否定するように私の内からは醜い黒が顔を出す。あぁ、入り混じるほどに心地よい。きっと、次こそは、次の私は。

 次の私は、きっと上手くやるのだろう――。


ふとした時に、自分の存在の不確かさを感じることがあります。ただ、「死なない」から「生きている」私にとってこの作品のようなことが起こり得ることはないのでしょう。
読者の皆さんにも、幸福な日々のありますことを。

サークル・オベリニカ|読後にスキを。

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