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【創刊号】作品解説【黎明】

- 本文|坡嶋 慎太郎 -

私は物語の中に物語らしき物語を求めず、ただ夜半に咲く一輪の花の如き鮮烈さを求める。すなわち、心に響くか否かということになる。
そういう意味では『桜賀創藝』はどうにも暗い印象が拭えない。創刊号であるが、日の出を感じづらい。「黎明」ゆえに陽の差す前の黎を色濃く残している。だが色味が同じであっても、そこには種類がある。みな、心に一も二も重石を抱えている。鮮やかな虹ではないが、単なる墨ということでもない。私はそれを気に入っている。
「解説」などと銘打っているが、私は全てを解くつもりもなければ、説くつもりもない。
物語は全て独自に解すれば良い。ただ、執筆を頼まれたからには書かぬというわけにもいかぬ。そのため、少しばかり作品の一つ一つに触れてみようかと思う。あくまで少しばかりである。

生きるというのは、液体のようなものでしょう。
生命という光り輝くエナジーをあちらこちらへこぼしながら、わずかに残ったエナジーを、本来注ぎたいと思っていたところに少しだけ与えるということなのだと。

『継ぎゆくイノチ』 - 炉紀谷 游

漫然と時を過ごしている。
死にたくないから生きているのではない。生きたいから生きているわけでもない。生きているから生きている。ただ、生まれた時から息づいている。
もし光り輝く「エナジー」なるものを注ぎたいと思えるものがあるならば、それは僥倖といえるだろう。たとえそれが可能であっても不可能であっても。
「生前」という言葉がある。「生」まれる「前」ではなく死ぬ前のことを指す。死前とは言わぬ。我々は生まれる以前のことを考えない。生まれることはごく自然なことであるから。生きることもまた自然である。生と死は対立するものではない。生の延長線上に死は存在し、逆説的に死の延長線上に生が存在する。互いに内包し合うものである。

ただ、生きるという力を忘れたくはないと思う。どんな生命も、どんな感情も、歪みきってちぎれちぎれになっても、切れはしない。

『継ぎゆくイノチ』 - 炉紀谷 游

生命というか細い糸の上を私たちは渡っている。歩いた軌跡を感情と呼ぶ。あっという間に霧散するそれは、確かにその一瞬に存在する。過去を振り向けば記憶に宿っている。ついぞ目には見えなくとも、決してなかったことにはなり得ない。それを私たちは一針一針と紡いでいる。

若者で混み合う広場で同じような服装の二人が話していた。黒と白のモノトーン。至る所にリボンをつけて、これでもかと言うほどに厚底の靴。これがここで生きる者たちの制服だった。

『藍色とノクターン』 - yayuki

人は己に見合った居場所を作ろうともがき苦しむ。人は一人では生きていけないとは誰の言葉だったか。「類は友を呼ぶ」という言葉がある。居場所を見つけた人間はみな一様に同じような格好をしてヘラヘラと猫の顔を付けている。
「私たちは仲間だから」などとありもしない連帯を醸し出し、過ぎては人を忘れ去る。ひどく吐き気のする光景である。

急になれなれしい様子で男性が話しかけてくる。藍々は何も答えず立ち上がった。平衡感覚がつかめずにふらつく。それから藍々は男性について公園の奥へと歩いて行った。

『藍色とノクターン』 - yayuki

掃き溜めにも花は咲くという。だが、花が必ずしも美しいとは限らない。汚泥のように黒ずんだ花を一体誰が好むのか。驚くべきことに好事家というものはどこにだって存在する。私は全くごめんである。だが、その美醜に依らず天は陽光を注ぐ。故に花もまた首をもたげたまま陽の方を向くのである。

この雰囲気を切り取って持ち帰りたいと思ったが、彼とあひるたちの時間を壊したくはなかった。彼らをじっと見つめてから、そっと池を後にした。

『カメラを手にして』 - 望月凛

私はカメラというものを好まない。魂が抜かれるのを恐れているわけではない。単に自身の眼を撮影機としたいのである。心がフォルダーである。生きた証を残すのもよかろう。だが、そればかりに固執するのは少々バカバカしい。己が目を信じるが良い。その点で彼女は正解を選んだといえる。

俺たちは結局コーヒー店でべちゃくちゃ話しながら文句を言い合うよくいる連中でしか無かっただけのことだ。それでも、得られたものがなかった訳じゃない。

『次の夜明け』 - aoi

特別な人になろうなどとは思うな。生まれた時から特別であるから。
何も為せぬことを恐れるな。所詮は道楽の一生であるから。
己が人生に意味を見出そうとする者は多い。私は彼らを案ずる。人は意味がなければ生きてはいけないのだろうか。生きるならば意味を作り出さねばならぬのだろうか。
否である。生きるとは自己満足の世界である。誰に咎められるものでもない。ゆえに己を咎める必要もない。
往々にして生きていれば誰かに批判される。死にたくなることもあろう。だが、だからこそ自身のことを自身だけは認めてやらねばならぬ。
「最愛の自分」と言えねばならぬ。

言葉を話そうと思えば大体は言葉になる。言葉を打とうと思えば大体は言葉になる。
 言葉は当たり前に私たちの周りにあって、言葉が言い表せないものはきっとそんなにない。
 でもその鋭いギラギラとした刃物は、なぜか言葉にできないものだった。

『後悔と悪魔』 - n

「人間にとって最も不幸なことは?」と聞かれれば、私は「言葉を得てしまったことだ」と答える。
言葉を得たゆえに表現したくなる。言葉を得たゆえに伝えたくなる。だが、言葉は万能ではない。昨日見た夕日の美しさも、夏の終わりの波の音も、恋人と別れたあの寂しさも、怪我をして挫折したあの痛みも、本当のところを表現できない。どれだけ技巧的に、豪奢に、質素に、文章をこねくり回したとて感情を言葉にすることなど不可能である。
小説は客観の世界であるから、やはりそこには客観的な冷静さが生じる。仕方のないことである。我々はどう頑張ったとしても他人になれない。また、過去の自分にも戻れない。
言葉は万能ではない。だからこそ愛おしいとも思えるのである。
言葉はまた薬にも似ている。特に心の病によく効く。
特効薬であるが、同時に毒物でもある。全ての薬がそうであるように使い過ぎれば消耗する。適量が大事である。

「いいか。風を感じろ。後悔は過去にとどまらない。後悔とは過去にあって、それから今に、そして未来に続く。それは、後悔を覚えている者によってだ」

『後悔と悪魔』 - n

後悔をしない選択をしろと人は言う。しかし、それは無理なことである。後悔とは後から悔いるから後悔なのだ。後悔をしない選択とは未来にでもいかなければわからないことである。だが、未来のことなどわかりようがない。 ゆえに後悔をしない選択などないのである。
風に吹かれるとは良いものである。過去の風に当てられて私たちは未来へ進もう。私たちは帆船である。後悔せずに航海するのである。

散らかった四畳半

空の鳴き声

外にいるよりずぶ濡れかもな

『チャイルドたち』 - すべての父母

詩は良い。かつて、日本近代詩の父とまで言われた詩人・萩原朔太郎は著書の中で詩を「生きて働く心理学」であると語った。それは全く自然なように思われる。詩は心に染み入る。純朴な感情が自分ごとのように感じられる。泣きそうになる。それが良い。
『桜賀創藝』ならびにサークル・オベリニカには詩を書く人間は少ない。できれば、「すべての父母」には以降も詩を書いてほしいものである。

以上。創刊号の作品のいくつかに触れたが、どれが良いとかどれが悪いとかは私は言わぬ。それは読者諸君の思うことであるゆえに。
もとより取るに足らぬからこそ「小説」である。
人生の教科書であり、思想の結晶であると同時に空想の産物でもある。
ゆえに必要以上にありがたがるものでもない。

創刊号たるこの作品集のどれか一つでも読者の心に残れば良い。ただそれを願って今回は筆を置くこととする。また、「創刊に寄せて」に倣い私も一つ詩を残す。
では、また次の作品で。

風に酔う。波は我が身に一夜。
宵に晴れ。月に明かりの想い人よ。
揺蕩う先は泡。君の声が聞こえる。
いずれ弾ける生命を抱えて生きるただ一世。


- 謝辞 -

本誌掲載にあたり執筆いただいた当サークルメンバーの皆様に感謝申し上げます。また、本号への挨拶・解説を寄せていただいた方々に深くお礼申し上げます。
桜賀創藝が、読者の皆様に愛されるよう今後とも豊かな作品世界の創造を続けてまいります。本誌を手にとっていただき、ありがとうございました。

2024年3月30日 サークル・オベリニカ

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