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【小説】胡蝶、死化粧 - 坡嶋 慎太郎【純文学】

あらすじ

ある雪の日。夜中の公園を歩く「私」は心に残った曇りに苛まれていた。その曇りを拭うための方法を探していた「私」は雪に触れることで、自己の中に存在する何かを感じる。
ある時、一頭の蝶を見た「私」はその美しさに目を奪われるが、蝶は蜘蛛の巣にかかり無惨にも死んでしまう。
その様子を見た「私」はまた、暗闇の中へと歩いていく。

本文

 雪が降っていた。
 しんしんと。不確かな音とともに空から舞い落ちるそれが今年も冬の訪れを告げていた。

 地面にはうっすらと白が這っていた。街頭の灯りを微かに反射するのは凍った水溜りだろう。上を通れば、パリッと音を立てて砕け散った。

 吐く息が白く濁った。全てが白かった。ただ、それが心地よかった。
 時折、横から吹きつける寒風が木々に残った多少の葉を揺すっていた。カサカサと音を立てるそれは、今にも風に乗って消えてしまいそうだった。

 街頭の灯りは薄くぼんやりとしていた。しかし、不思議と遠くまで見渡せるようだった。

 私は当てもなく歩いていた。ただ、何か心に残った曇りを拭うための方法を探していた。それは、朧げな影のようなものだった。影は形を作らずにべったりと心に張り付いていた。

 家から路地へ。路地から高架下へ。高架下から公園へ。そうして今、私は噴水の前へと辿り着いた。
 園内は静かだった。あたりに人はいなかった。それでも、噴水だけは昼間と同じように音を立てて水を流し続けていた。

 水面に白い粒が降り立った。しんみりと、跡形もなく溶けていった。
 ――儚い。
 私はその様子にゾッとした。ともすれば、私もあの雪の一片のようにこの世から消えてしまいそうな錯覚に襲われた。

 遠くで野犬の声がした。
 ふと、私は噴水の縁に腰かけた。膜のような雪がズボンを湿らせた。しかし、冷たいとも感じなかった。また、汚れることも気にはならなかった。
 私は中空を見つめ続けていた。

 雪が肌に触れるたびに、私はこの身体が自分のものではないような感覚に襲われた。右手を動かそうとすれば、それはそのまま世界に融解するかのようだった。

 私は一時、一週、あるいは一年、そうしていた。
 ただ、生きていた。私は生きていた。
 身体のうちに秘められた何かが暴れていた。その何かは夜空を覆う星の奔流のようなものだった。だが、同時に心だけは晴れなかった。

 いつしか、私の前を一頭の蝶が横切った。蝶? 私は自らの目を疑った。この冬の闇の中に蝶がいることに奇妙な感慨を覚えた。蝶は私を気にすることもなく、ただ羽をはためかせていた。

 美しい、と純粋な感想が漏れた。私はまたその蝶を見つめ続けていた。雪はいつのまにか降り止んでいた。
 
 ひらり。ひらり。
 みぎに。ひだりに。
 ひらり。ひらり。
 
 不規則に動くそれは、まるで私の行く末を暗示しているようにも思えた。私もまた、明確な目的もなく浮遊していた。

 蝶はいくらか飛ぶとその羽を休めるように雪で濡れた枝葉の上に足を下ろした。二度、三度、その羽が揺らいだ。私はその様子を具に観察していた。
 どのような種類だろうか。雄だろうか。雌だろうか。なぜ、私の前に姿を見せたのだろうか。

 私の問いに対する答えを、当然ながら私自身は持ち合わせてはいなかった。

 私が抜け殻のように枝葉を見つめていると、唐突に、冬の蝶が不可思議な動きを見せた。まるで何かに絡まるように、その体を上下に震わせた。

 蜘蛛の巣だ! 私は不意に理解した。蝶は蜘蛛の巣にかかったのだ。そう認識すれば、確かにそこにはか細い銀の糸が何重にも張り巡らされていた。

 蝶はその肢体を放り出し、必死の形相で踠いていた。だが、人が手で触れればぷつりと切れてしまいそうな糸も、蝶の力では引きちぎることすらままならないようだった。

 しばらくすると、蜘蛛の巣の上層から一匹の蜘蛛が顔を出した。黒を基調とした胴体に黄色のマダラ模様をつけたその姿は、私に不確かな嫌悪を与えた。
 ――蜘蛛だ。蜘蛛がいるぞ。
 私は心の中で、逆さ吊りになった冬の蝶へそう呼びかけた。冬の蝶は依然として体を捩り、粘着質な網から離れようと踠いていた。その間にも、蜘蛛は器用に糸の上をするすると下り降りていた。

 蝶に近づく蜘蛛が口を開いたのがわかった。邪悪な笑みだ。底冷えするような、弱者を苛むものの顔だ。私は本能的な恐怖を感じた。

 蜘蛛は尻から糸を出すと、器用に足先で逃げられない蝶を回してはまるで繭を作るかのように執念に何重にも糸を巻きつけた。蝶の抵抗はより一層強くなった。淡い色合いの羽が大きく開いては閉じるを繰り返した。だが、蝶が逃れることはなかった。終いには、その姿も見えなくなった。隙間から覗く線のような足は力なく垂れていた。

 私はそっと立ち上がった。そうしなければならない気がした。そうして、私はまたぼんやりとした暗闇へと歩き出し始めた。雪は止んだのに、寒さはより一層強まった気がした。

 ――空に浮かぶ月が私を嫌に明るく照らしていた。


作品概要

題名:胡蝶、死化粧
作者:坡嶋 慎太郎 (さかしま しんたろう)
ジャンル:純文学
製作者コメント
「冬の灯り」がテーマの作品だったはずなのに、気づけば仄暗い話になってしまいました。ただ、後悔はしていません。
皆さんの心に何か響くものがあれば嬉しく思います。

【参加企画】
本作は、創作企画「冬の灯」に投稿された作品です。
【企画概要】
「冬の灯」をテーマに自由に創作する企画です。冬から想起される様々なイベントや、私達が感じている情緒を作品に反映させてみてください。作中、「灯」をどう用いるかは創作者の表現次第です。電灯? イルミネーション? 提灯やそれ以外も使えるでしょう。あなただけの「冬」をその灯で照らしてください。

サークル・オベリニカ|読後のスキを。


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