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視力の悪さも英語の不出来も問題ではない。 夢を叶える魔法のことばは・・・

前回は恐怖の霊体験について投稿しました。
自宅での霊体験は、ほんとあれっきりにしてほしいものです。


今回は霊的ではないけど、一般にプラスと思えなさそうなことが発揮する力や、できそこないであるがゆえの美点について、言いかえれば、我々が通常望まない状況は、その想いと裏腹に、実は望ましい状況だと悟った体験を紹介します。


こちらは第一弾です!

まずは、私が中学2年生の時にメガネを装着した時の話です。

14歳の時、強度の近視のため人生初めてのメガネをかけました。それは紺色のプラスティックのフレームで、整列で前から2番目の小柄の私には、まさに「トンボのめがね」そのもの、しかも少し重かったです。


で、そのメガネのおかげで、たしかにいろんなものが以前より見えやすくはなったのですが、その反面、今までわかったようなものが、見分けられなくなってしまったんです!


たとえば、担当の先生が廊下からこちらに向かって歩いてきているときです。以前なら、先生がずいぶん向こうにいても見分けることができました。あれくらいの背の高さ、肩の揺れ方、歩くスピード、上半身の姿勢などで、あっあれは〇〇先生だから、きちんと横を通る時に頭を下げて、話しかけられたらネコかぶっていようとか・・・


もう一つ例をあげるなら、カナダで大学院生だった時の話です。入学したばかりの私の英語力、特にヒアリングはひどかったんです。それで授業中、先生の声のトーンが強めになったところの単語をできるだけ拾って自分なりに理解を進めていました。


時間とともに英語のリスニングにも慣れてきたのですが、なんと、英語がわからなかったころの成績の方がよかったんですよ。


で、これってなんでなんだろうって、今回、自分なりに考えてみました!

おそらく、苦労せずによく見えるようになって、あるいは英語が聞き取れるようになって、今まで無意識にしていた「不出来を補うための模索や工夫をすること」をやめてしまったんですね。

そして危機感のようなものが消えたことによって、単に見えるものを見て、聞いたものを聞いて「それだけでもう正解を得た」みたいな気持ちになってしまった。


うーん、違うなあ、もっと根底にあるものをなくしちゃったんだよね・・・


たぶん、、、「知りたいという願望」をなくしたんですね、きっと・・・


もしかしたら「願望」が不可能を可能にさせる魔法なのかもしれません。


物理的なものに頼りすぎるライフスタイルを少し控えて、もっと不確かなものを信じて行動してみようかなあとちょっと思いました。(多分今だけそう感じて、すぐに忘れるけど。)


次回は、第2弾です。「英語の下手さは最大の魅力のポイントだと知っていたなら、私のモテ期はもっと続いただろうに・・・」というカナダでの私の残念でたまらない体験を投稿します。


以上、「ふんわり雲の走り書き」でした。 Thank you for stopping by !




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