「好意」について思うこと。
樹木希林さんがお亡くなりになって、テレビ各局では過去のインタビュー映像がたくさん流れていた。その中で、
「人からのプレゼントは受け取らない」と言っていたのがとても印象的だった。「物が増えるし。その人があげたいものが、本人にとって欲しいものとは限らないでしょ?」というようなことをおっしゃっていた。
ほんと、そう思う。
最近の私には、その言葉がなんだかとてもよく響いた。
ちかごろ、「好意」についてよく考える。
たとえば、何かを(物でも体験でも)プレゼントしたい。感謝の気持ちを示したいっていうのは、完全に「好意」でプラスの感情。素敵でハッピーなこと。
でも、「本当にそうかな?」と最近の私は思っている。
たとえば、好意を示す(例えばプレゼントを渡す)時はたいていの場合、「相手が喜んでくれる」ことが前提になっていて、「相手が喜ばない」という絵は想像していない。
実際に少し前の自分は、「相手のため」と思っているときほど、それに対して本人が喜ばなかったら、「なんで喜んでくれないの!?性格わるー」とか、思っちゃってたし(笑)
でもよくよく考えたら、「好意」という見た目の、自分勝手な判断・感覚を押し付けた上に、“私が期待する反応をしてください”っていうのは、かなり傲慢なことだよね。と、急にハッ!となった。
「良かれと思って」ていうのは、もしかしたら、相手のためというよりも。「自分への納得感や安心感を高める」自分のため なんじゃないかと最近思っている。
「良かれと思って」やることが、必ずしも相手が嬉しいこととは限らないっていうことを、ちゃんと頭に入れておきたい。
あと私自身もそういう好意を受けるとき、「自分が本当は嫌で断ることができる」場合には、ちゃんと断れる自分になろうと思う。自分が嫌なのに、相手を傷つけるかもしれないと思って受け入れたことは、あとで自分を傷つける。
昨日のnoteに書いた、「察する」よりも「意思表示」と同じ感覚。
「良かれと思って」考えて行動することは全然わるいことじゃない。でもそれは、相手のためじゃなくて「自分のため」。そう自覚するだけで、見える世界が劇的に変わるような気がしている今日この頃です。
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