【最新作云々75】二律背反の愛の水底に沈む哀しき巨体... 贖罪のために食べ続け泣き続け謝り続けた男が人生の最後に望む絆の映画『ザ・ホエール』
結論から言おう!!・・・・・・・・・こんにちは。(●´д`●)
この四月から"マイナンバーカードの健康保険証利用、いわゆるマイナ保険証にしないと医療費窓口負担が割高になる"、という話を今さらながらに知って手続しようかどうか迷ってる、O次郎です。
今回は最新のハリウッド映画『ザ・ホエール』です。
主演のブレンダン・フレイザーが第95回アカデミー主演男優賞を受賞したことで一層注目を集めた一本。
十年ほど前に妻子を捨てて同性の恋人との愛に走った中年男性が、自らを罰するかのように陰々滅々とした日々を暮らす中で健康を害し、生涯最後の望みとして一人娘との絆の再生を希求する最期の一週間の物語。
元が同名の舞台劇だったということもあってとあるアパートの一室、登場人物は数人という極私的な世界ですが、それだけに濃密な内省世界が展開され、またダーレン・アロノフスキー監督による官能的で粘液質且つ幻想的な画造りが観ている側を酩酊感に誘う、まさしく深海に潜っているかのような息苦しさと開放感を同時に感じる力作です。
その話題性ゆえに公開館も多く、既に鑑賞済みの方も多いかと思いますが、私見の一本として読んでいっていただければ之幸いでございます。
それでは・・・・・・・・・・"幸せウサギ"!!
Ⅰ. 作品概要
上述のように主人公のチャーリー(演:ブレンダン・フレイザー)の住むアパート内の各部屋とその玄関先だけをロケーションとし、体重二百数十キロで自宅から出られないばかりか宅内での移動にも難儀する彼を入れ代わり立ち代わりでその他登場人物たちが訪問する形で物語が展開します。
その訪問者たちにしても非常に数が少なく、
・チャーリーの唯一の友人であり看護師リズ(演:ホン・チャウ)
・キリスト教の宣教師トーマス(演:タイ・シンプキンス)
・ピザの配達人のダン(演:サティア・スリードハラン)
・チャーリーの疎遠な娘エリー(演:セイディー・シンク)
・チャーリーの元妻であり、エリーの母のメアリー(演:サマンサ・モートン)
の五人だけなのですが、それぞれがチャーリーに対して非常に象徴的なスタンスを取っています。
まず彼に対してあくまで第三者で客観的なのがダンとトーマスでしょう。
毎日のように近隣のピザ屋のデリバリーをオーダーするチャーリーですが、店員のダンが配達に来る度に「お代は郵便受けに入ってる。ピザは玄関先に置いておいて。」と対面せずに済ませます。
風変わりな客への興味と社交気分も相俟って名前を名乗ったり簡単な挨拶を交わすようにはなりますが、物語終盤のとある雨の日、配達されたピザをピックアップするためにリズに提供された車椅子に身を沈めて息を切らしながら玄関先に顔を出したチャーリーの異様な風体を待ち構えるように目撃したダンは「マジかよ…….」と驚きと嫌悪感を顕わに走り去っていきます。
同じように、それまで自身のカメラをオフにして教鞭を取っていた大学のエッセイのオンライン講義に於いても自らの最後の授業として姿を晒して受講生を驚愕させており、クライマックスまでで彼の人となりや近しい人たちとの愛憎を知って心底感じ入っているところに満を持したように冷徹な客観性をぶち込んできていて、そうした悪趣味とも言えるリアリスト的演出はまさしくダーレン・アロノフスキー監督という気もします。
トーマスに関しても宣教師といえば聞こえは良いですが実際の態様は飛び込みのセールスマンの如く他の警戒心を煽るようなものであり、観客としてもなんとも消化に困る立ち位置ではあります。
たまたま布教活動中に訪問したことで発作を起こして苦しんでいたチャーリーを介抱し、そのことで自分でも役に立てるのだと頼んで度々チャーリー宅を訪れます。
彼は彼で、元々の教区で職務に勤しんでいたものの布教とは名ばかりのパンフ配布の日常に疑問を感じて幹部に直訴をしたものの相手にされず、腹いせに教団の金を拝借して他所に逃げて来ていたのでした。
根は悪い人間ではないのでしょうが、自己満足のために他人の救済に固執している姿が見て取れ、現にチャーリーを巡る奇縁で知り合ったエリーの機転で教壇に着服の罪を許されたことを知るや否や、チャーリーの抱える問題はさて置き、彼に促されるや一目散で元居た教区へと帰っていきました。
直接的な非難は勿論でしょうが、こうした"善意の第三者"の存在もマイノリティーの人々を苦しめる大きな要因ではないかとゾッとさせられました。
一方でチャーリーの亡きパートナーの妹のリズは、「チャーリーが兄を愛してくれていなければ兄はもっと早く命を落としていただろう」と語り、彼を慰めつつ心からの謝意を伝えます。
信者の心の平穏を体現するのが宗教の筈なのにその教義が生前の兄を深く苦しめたからには蛇蝎の如くそれを憎むのは当然であり、その辛い経験ゆえに"自分の生き方は自分だけのもの"という想いを強くしたのやもしれません。
だからこそ、看護師としてチャーリーを心底心配してしきりに入院を勧めながらも、頻繁に起こす発作の苦しみの中で「そんな金は無い。そんなことよりも娘にお金を。」と一貫して頑とした意思を見せる彼に無理強いは出来なかったのでしょう。
リズは愛する兄を失ったうえに家族からの無理解に未だ苦しんでいますが、チャーリーは妻子を捨ててまで愛を捧げたパートナーに先立たれまるで自分が他者に不幸と破滅ばかりを齎す禍物のように感じられたのだとすれば…その自らの身を罰するように美食とはほど遠いジャンクフードを貪って緩慢な自死に向かうチャーリーを思い止まらせるだけの希望を提示することは不可能だったのかもしれません。
そしてチャーリーのその行為は同時に、娘との接触を一切禁じていた元妻が娘の成長の痕跡を懇願するチャーリーに対して過去に唯一開示してくれたハーマン・メルヴィル『白鯨』のエッセイに鑑み、娘がかつて辛辣な評論を下しつつもそれだけ真摯に向き合った"白鯨"の姿に近づくことで娘との繋がりを手繰り寄せようとするものでもありました。
そして「あなたはお金、私は子育て。」という言葉が象徴的な元妻メアリーはドライというよりも意固地になっている感が濃厚です。
これまで徹底してチャーリーとエリーを関わらせないようにしてきたことが窺え、チャーリーの側もそれに従ってきたようですが、どうもそれは自分と娘を捨てた元夫の不義理に拘泥せずに済むよう自身の愛情で娘を包むというよりは、チャーリー=絶対悪 / 自身=絶対善 という図式を自身としても対外的にも徹底しようとしたゆえの経緯のように思えます。
友人やその他周囲の人々に対して常に挑発的な態度を取り、度重なる問題行動の帰結として停学と落第スレスレの状況のエリーを「あの娘は邪悪」と評して半ば匙を投げているかのようなメアリーの態度は、いわばチャーリーに対する自らの人生と倫理の正当性の証左として我が娘を矯正教育しようとしていた後ろめたさそのもののようです。
自分を精一杯愛してくれていた父親が突然母とは違う相手との愛の逃避行に我が身を擲ったショックが幼き日のエリーの心を抉って歪ませてしまったのは間違い無いでしょうが、かといって自分の思い通りに育たなかった娘を腫れ物のように扱う母親の姿も相応にエリーを傷付けたであろうことは想像に難くありません。
その一方で、数年前のものとはいえそのエリーが書いた『白鯨』に関するエッセイの文面の中に辛辣さと苛烈さはあれど物事の本質を見抜く洞察力と人物の人間性に寄り添う心根の優しさを見出し、何より自身が仕事としている文筆業の分野で最愛の娘の人となりを知り得たチャーリーのこの上ない歓喜の心が、クライマックスでの過去の自らの過ちに対するエリーへの心からの謝罪の意とともに伝える「君は僕の最高傑作だ」という言葉の中に弾けています。
チャーリーは自分の健康を犠牲にしてまでエリーのために膨大なお金を遺し(チャーリー曰く"自分の人生の中で成したたった一つだけの正しいこと")、エリーの人間性が集約された『白鯨』に関するエッセイを彼女自身に朗読してもらいつつ、満身創痍の巨体を彼女の前で立ち上がらせながら彼方の世界へと旅立っていきます。
そのラストシーンの感動の中、自分としては件のエリーのエッセイを反芻しながらゲイポルノの動画でオルガスムに達していた冒頭のチャーリーの異様が反作用のように想起されてしまったのですが・・・・・・あまりにも両極端なエッセンスの屹立ながらまさしく生と性を鬻ぐ人間そのものであり、それを物語導入部にドンと持ってきたあたり、"やはりアロノフスキー監督、恐るべし…"と肝を冷やした次第です。
Ⅱ. おしまいに
というわけで今回は渦中のアカデミー賞受賞作品『ザ・ホエール』について語りました。
映画評論家の町山智浩さんが本作について"親だって完璧な人間じゃないんだ、というお話"と端的に評されていましたがまさにその通りだと思います。
自分の幼少期の頃を思い出してみると、親が何かに失敗したり負けてしまうことそれ自体は大した問題ではなく、むしろ彼らがそれを認めようとしない姿にこそショックを受けたり悔しい思いをしたのではないでしょうか。
人として真っ当であるということは器用なことではなくて誠実であるということ。それを思えばネバーギブアップなのですが、一方で本作が"取り返しのつかない過ちが有る"を大前提とした物語であるがゆえに観ている側もまさに二律背反の煩悶に迷い込む作品でした。
今回はこのへんにて。
それでは・・・・・・・・・どうぞよしなに。