日本史論述ポイント集・近代⑩
今回は、日中戦争から日米開戦への過程と終戦までを見ていきたいと思います。
後世から眺めると、戦争への道を一直線に進んでいたように思えますが、実際のところはそう単純ではなく、気がつくと引き返せないところまで来ていたというのが当たっているでしょう。
そもそも、日中戦争は両国とも宣戦布告をしていません(当時は「北支事変」「日支事変」と呼ばれました)。アメリカの中立法(戦争当事国に対する武器・弾薬の輸出を禁止する法律)の適用を避けるためです。
日本も短期決戦で終わらせるつもりでした。しかし、後述するように泥沼化していくことになります。
また、その後に日中戦争の打開を図るため日本が南進策を取ったときにも、利害がぶつかるのはアメリカではなく、東南アジアに植民地をもつイギリス・オランダドイツなどでした。
アメリカとは、開戦の1941年にも断続的に日米交渉を行っています。しかし、妥協点が見出せないままアメリカの経済制裁が強まり、日本は開戦せざるを得ないところまで追い込まれていきました。
今回は、どこで超えてはならない一線を超えてしまったのかを考えながら見ていただけると、より面白さが引き立つと思います。
近代⑩・日中戦争と太平洋戦争
Q1 日中戦争が泥沼化したのはなぜか?
A1
①日本軍による首都南京の攻略後、なおも抵抗を続ける蔣介石の国民政府に対して、時の近衛文麿首相は「対手とせず」と声明して自ら和平の道を閉ざした。(第一次近衛声明)
②重慶まで逃れた国民政府は、米英の物質的援助を受け(援蔣ルート)、抗戦を続けた。
③近衛首相は東亜新秩序の建設を呼びかけ(第二次近衛声明)、これに呼応した汪兆銘に南京に新国民政府を樹立させたが、傀儡政権に戦争を終結させる力はなかった。
Q2 総動員体制はどのようにして構築されたか?
A2
①1937年の日中戦争に開始を受け、臨時資金調整法・輸出入品等臨時措置法が制定され、軍需産業に資金や輸入資材が優先的に割り当てられるようになった。
②1938年度からは企画院が物資動員計画が作成され、軍需品が優先的に生産されるようになった。
③1938年には、国家総動員法が制定され、戦時に際して人的・物的資源の動員が議会の承認なしに勅令で行えるようになった。また、電力国家管理法は政府が私企業への介入を強めるきっかけとなった。
④軍需品の生産が優先される中で民需品の生産は制限され、公定価格制の導入や、砂糖・マッチの切符制、米の配給制など、国民も生活の切り詰めが求められた。
Q3 大政翼賛会の設立目的は?また、実際はどのような組織であったか?
A3
①欧州戦の緒戦においてドイツ軍が快進撃を続けるなかで、ナチスにならった強力な国民組織の創設を目指した。
②ほとんどの政党が解散して参加したものの、主権在君の明治憲法体制に反するとして政党化は断念を余儀なくされ、町内会や隣組を下部組織とする官製の上意下達機関にとどまった。
Q4 松岡洋右外相が日ソ中立条約を結んだ狙いは?
A4
①援蔣ルートの遮断と戦略資源の獲得を目指して東南アジアへの南進策を進めるうえで、北方の平和を確保する。
②軍事同盟を結んだ日独伊三カ国にソ連を加えた力で、経済制裁を強めるアメリカとの関係調整を図る。
Q5 東条内閣が大東亜会議を開催した目的は?また、現地での実際は?
A5
①戦局が悪化するなか、アジア各地の指導者を集め、欧米植民地支配からの解放と大東亜共栄圏の建設を宣言して、結束を誇示した。
②しかし、戦争遂行のため物資や労働力を調達したいという日本の思惑は明らかで、現地では厳しい収奪・動員から住民の抵抗を受けた。
Q6 カイロ宣言とヤルタ密約の矛盾点は?
①カイロ宣言では、日本からの領土剥奪とともに、米英中三カ国も領土拡張を求めないことが確認された。
②しかし、ヤルタ密約では、ソ連対日参戦の見返りに千島列島と南樺太の譲渡を約束した。