〈文芸批評〉ある万葉人の孤独
文字が普及する以前の話として考えたいのだが、歌われるものを歌と呼ぶならば、歌は聞く人のいることが前提となるはずである。歌は人と共有されるものなのだ。なおかつ、聞く人がたった1人ということも想像しにくい。なぜなら、伝達する相手が1人ならば、普通に話せばいいのだから。ということは、歌を披露する場は、やはり大勢の聴衆の前ということになる。とすると、孤独の心を歌う人は、孤独を演じているに過ぎないということになるのであろうか。
青みづら 依網(よさみ)の原に 人も逢はぬかも いはばしる 淡海縣(あふみあがた)の 物語せむ (万葉集 巻7・1287)
柿本人麻呂歌集から万葉集に採録された旋頭歌のうちの1首である。大意は「依網の原で人に出会わないものかなぁ。もし会えたら、淡海縣の物語をしよう」というくらいのものである。この人は、人と出逢うことを希求しているのだから、孤独である。さて、この人は「人」と出逢って淡海縣の物語をすることができるであろうか。
この人が出逢いの場所として設定しているのが「原」であることに着目してみる。原とは、浅茅原とか菅原とか真葛原とか杉原とか榛原とか、植物ばかりの生い茂る、人の日常的な生活空間からは隔絶された場所だ。普通はそんなところに人は来ない。人目を忍ぶ逢瀬としてならば好都合かもしれないが、その場合なら「君」とか「妹」とか呼ばれる相手と出逢うことを求めるはずである。「人」という語の意味は多様だが、人間一般を指すニュアンスがある。この句が「君に逢はぬかも」でも「妹も逢はぬかも」でもないことは重視されるべきであろう。「も」の効果もあって、「人も逢はぬかも」の場合、どんな人でもいいから、せめて人でさえあればいいから、人に会いたいというニュアンスになるのではないか。万葉集での表記は「人相鴨」なので、「も」は解釈による読み添えなのだが、現行の諸注釈のほとんどが「人も逢はぬかも」の訓を取っているということは、この歌が恋人との逢瀬を希求するものとして受容されてはいないことを示唆するものと言えよう。逢いたいのは一般的な意味での「人」であり、原はそもそも人の来ないところなのだから、依網の原にいる限り、この人は誰にも出逢うことはできない。そして淡海縣の物語は、いつまで待っても始まらない。この人の孤独は永遠に続くしかない。
万葉集に孤独な心を詠んだ歌が他にないわけではないが、恋人に会えないつらさや愛する人との死別の悲しみを詠んだ歌に見られる孤独感の表出とは異質な表現を、この歌には見出すべきだと言いたいのである。こんな過酷な孤独が万葉集の時代の人の心にどのようにあり得たのだろうか。そんな風に思わせるところが、この歌の特異性である、と私は考える。
興味深いのはそれだけではない。この、誰ひとりとして人のいない荒野にぽつりとたたずむ孤独な姿の表出が、大勢の聴衆による共有を前提とする「歌」という形式に依拠して存在しているという矛盾をどう考えたら良いのか、という問題がある。単純に考えて、孤独を表出していながら、実際には大勢の聴衆が目の前にいるというのならば、その孤独は虚構である。この歌の主は、虚構としての孤独な自分自身を歌によって造形している。というか、むしろ孤独な自分のたたずむ荒野という場面を造形しているのである。実人生の中で孤独を経験することと歌で孤独を表出することとは、繋がってはいるけれど、別のことだと考えた方が良さそうである。