花のお江戸は世界一の○○な都市
〔前説〕
この記事の話題は江戸時代の火事についてです。
火事の話題をセンシティブに捉える方もいらっしゃるかもしれません。記事の内容は江戸時代の歴史、風俗のことですので、どうかご了承いただけると幸甚です。
明暦の大火
かつて旧暦1月18日~20日に何があったかともうしますと、歴史上の大事件(大災害)「明暦の大火」があった日です。
時は4代将軍徳川家綱の治世。明暦の大火は1957年(明暦3年)1月18日~20日(新暦3月2日~4日)にかけて将軍のお膝元、花のお江戸で発生しました。火は3日間に渡って江戸の街を焼き尽くし、焼失面積は6割以上、死者は10万人にのぼったと言われ、明和の大火(1772年)、文化の大火(1806年)と並び、江戸三大大火と称されます。
しかし、のちの二つの大火に比べると火災の規模、死傷者数とも明暦の大火はケタ違いで、戦禍、地震災害を除いて人類歴史上最大級の都市火災ではないかと言われており、ローマ、ロンドン、江戸は世界三大火災と呼ばれることもあります。
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徳川家康の開府以降、江戸への人口流入が活発となり、幕府を支える江戸在住徳川家臣団に加え、参勤交代制定以降は地方武家の江戸屋敷建設に伴う赴任武士の流入もあり、江戸の武家人口は飛躍的に増加しました。
それを支える商人、町人もまた増加し、人口増加に伴って信仰の対象となる寺社仏閣の建立も増えていきました。明暦年間では町人30万人、武家10万人程度が住んでいたと推定されています。
明暦の大火によって江戸城は天守閣、本丸、二の丸、三の丸が焼失。逆に何が焼け残ったの(。´・ω・)?というくらい、江戸の街は焦土と化し、天守閣はその後再建することはありませんでした。(どうせまた燃えちゃうし、と思ったのでしょうか。)
火事と喧嘩は江戸の華
「火事と喧嘩は江戸の華」って。
Σ(-`Д´-;)テヤンデェ
現代のコンプライアンスからすると、それはあかん。
大江戸は災害と暴力の街、そして野犬だらけ(生類憐みの令の時代)の街。
とんでもねぇ!粋でいなせなマッドシティじゃねぇか!
!Σ( ̄□ ̄;)
統計によりますと、江戸時代の江戸の火事は大火災が49回、小火災が1800回程度発生しており、江戸は歴史上比類なき世界一の「火災都市」なのです。
当時は木造だから仕方ないのでは?と思う方もいらっしゃますが、そうではありません。同じ江戸時代の間に京都の大火は9回、大阪が6回ですから、いかに江戸で火災が多かったか、お分かりいただけるかと思います。
江戸でこれだけ火災が多いのはいろいろと理由があるのです。
江戸には「町割り」という身分による居住区画割りがありまして、武家区画には町人は住めません。江戸城の周りはアッパーサイドで、広い武家屋敷が立ち並び、その外郭に町人の居住区である町屋敷がひしめくダウンタウンがあります。
「江戸」という都市の範囲は今の23区並といわれており、その70%を武家が占有し、15%が寺社、残りの15%を大多数の町人が居住している構造でした。
俗に「ウナギの寝床」といわれる賃貸アパート(裏長屋)が、表通りの商店の裏手に密集しており、4畳半から6畳の間取りにひと世帯、長屋の大きさにもよりますが4~8世帯でひと屋敷、そのような町屋敷が20~30軒で1町を構成していました。よく「大江戸八百八町」といわれますが、最盛期には千町を超えていたそうです。
ですから6畳1Kのお部屋にご家族4人暮らしとかでした。
この、とてつもなく狭い空間に、表通りの商店の奉公人とか、職人、芸人、浪人など多種多様な人々が、文字通り「袖すり合わせて」共同生活を送っていたのです。
下町は義理人情に厚いといわれますが、逆に人間関係の超濃密なこの町で、義理人情を欠いては生きていけないことが容易に想像がつきます。
長屋社会、大家と店子は連座制、「大家と店子は親子も同然」といわれていました。店子に何かがあると大家も罰を受けます。店子に何かがあったら守ってやるのも大家の役目です。まさに義理人情の世界。
そもそも火事が起きて自分の賃貸アパートがまるっと燃えたらコトですので、火の不始末を起こすようなだらしない独身者や無頼の徒に、大家さんは常に目を光らせておりました。
人間同士も密なら、屋敷同士も密。一旦どこかで火が付くと、次々に屋敷に燃え移り大火災となります。このように江戸は火災の連鎖(類焼)が起きやすい都市構造だったのです。
明暦の大火の教訓と江戸っ子気質
明暦の大火でもこのような都市構造がわざわいし、風に乗った炎は瞬く間に町屋敷を焼き尽くしていきました。
さらに、当時の江戸の都市構造が良くなかったのは、「逃げ場がない」ことだったのです。
東の下総国から江戸に入るためには、江戸川、中川、荒川、隅田川と、いくつもの川を渡し船で越えなければなりません。江戸幕府からしてみれば、これは天然の掘。敵の侵入から江戸の街を守るには、「橋を架けない」ことが最良の対策だったわけで、東側の千住大橋以外に主だった橋はなかったのです。(映画「超高速参勤交代」でも磐城湯長谷藩士が江戸に入るのに、下総国松戸からこの千住大橋を通過した模様。)
この架橋しないという政策は、外からの侵入を防ぐことができる反面、内側からの流出をも困難にしていました。
ちあきなおみ/細川たかしの「矢切の渡し」の歌詞でも、柴又から舟で江戸川を渡って駆け落ちする男女の描写があります。江戸の橋の通過には様々な制限があったのです。
町人らは家財道具を大八車や車長持というキャスター付きファンシーケースで、まだ未整備だった江戸の狭い路地を右往左往して大渋滞を巻き起こし、行きついた川はドン付きでバイパスもなく、建物が邪魔して川上にも川下へも逃げることができません。そのうち火に巻かれるか、川に転落するかして実に多くの町人が亡くなりました。
この教訓を元に、江戸城周辺に「広小路」と呼ばれる幅員を拡張した主要道路が整備され、周辺河川には橋が架かり、川沿いは退避地として建物を立てずにスペースを空けるようお達しが出ました。
また隅田川沿いの両国にはこの大火で亡くなった死者を弔うために幕命で「回向院」が建立されました。のちにこの回向院で相撲の見世興行が行われたのが、現代大相撲のルーツといわれており、昭和の時代になるとこちらに「国技館」が建てられます。
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幕府の都市計画や消防(火消)の組織化もあり、のちに繰り返される大火でも明暦ほどの死傷者は出ませんでした。ですから三大大火とはいえ、後のふたつの大火は明暦の教訓が多少は活かされているのです。
例えば、枕元に常に避難用具を置いて、いつでも逃げられるようにしておいたり、家具や資産を最低限しか持たないなど、かなりミニマムな生活を送っていたそうです。「宵越しの金を持たない」という、その日暮らしの江戸っ子気質も、「どうせ持っていても仕方ない」という気持ちがあったからだそうで、江戸っ子は気っぷがいいからという訳でもないようです。
江戸はいわゆる南関東直下型地震が頻発しており、二次的に起こる火災にもたびたび被災しております。
あまりにも火災が多いものですから、不謹慎にも火事場見物(野次馬)が冬の風物詩にもなったとのことです。「江戸の華」と称して庶民がエンタメ化しているので、お上から火事見物禁止のお達しがあったほどです。
もうひとつの華、喧嘩だって、宵越しの金持たない人がお酒で憂さ晴らしたりしたら、そりゃするでしょうね。
(-_-メ)オウ
それに狭いところでギスギスして、災害ばっかり起きていればストレスだって溜まりますわね(;´・ω・)
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江戸の大火災、富士山噴火、関東大震災、東京大空襲、こんなに焼失と再生を繰り返す世界都市がほかにあるでしょうか。私たち日本人は、いつだってどん底から這い上がってきたんだと思うと、明日を生きる勇気が湧いてきます。
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これからますます乾燥する季節となりますので、くれぐれも火の元にご用心ください。
昔「戸締り用心、火の用心」って高見山が出てるCMあったなー(*´ω`)
最後までお読みいただきありがとうございました!