明暦の大火サイドストーリー~お袋の味をもとめて
1657年に発生した明暦の大火は、神君家康公の開府以来半世紀、3代にわたって発展させてきた江戸の町をわずか3日で焼き尽くしました。江戸の町の3分の2が燃え、死者は10万人にのぼったと言われております。
幕府は、3代にわたって増改築を繰り返してきた日本最大級の江戸城天守閣再建を断念し、大名屋敷や町の復興を優先させました。かつての華やかな江戸を取り戻そうと大工・左官・鳶など大量の職人・作業員を江戸城下に投入します。折からの飢饉や不作もあり、周辺諸国から仕事を求めて江戸に流入する民もいました。
復興途上の江戸は、住まいの問題、公衆衛生上の問題、治安の問題など様々な問題が発生しました。
作業員の多くは独身男性で、日夜過酷な肉体労働をしていますが、常に食事に困っていました。雑居の詰所では食事を作ることもできず、ましてや大火の後ですから火の元は非常に厳しく戒められていました。これはもうどこかで調達するしかありません。
あぁ故郷の母ちゃんの味が恋しい……( ˘•ω•˘ )
パッと食べられるものが欲しい……(´;ω;`)
そんな独身男性たちに重宝されたのが「煮売屋」です。文字通り煮豆、煮魚などおかずとなる煮物を売るお店です。菜屋とも呼ばれており、いわゆるお総菜屋さんです。(「総(惣)菜」とはおかずとか副食のことです。)最初のころは店先や屋台で買い付けるテイクアウト方式でした。
晩ご飯が調達出来たら欲しくなるのが……そう、お酒ですよね。そんな方たちにお酒を提供する煮売屋さんも現れました。当時のお酒もおかずと同様に量り売りのテイクアウト方式です。店に徳利を持って行って、その中にお酒を入れてもらいます。
しかし腹ペコでせっかちの江戸っ子です。住まいに帰るまで待ちきれず、煮売屋の軒先で飲み食いし始めました。この様子を見て「これは」と思った店主。煮売家の店内や店先で「居酒」ができると標榜すると、これまで外食の習慣のあまりなかった江戸っ子たちの間でたちまち流行りました。煮物だけでなく、店ごとに趣向を凝らした酒の肴を考案し、復興とともに江戸の町中にこうしたイートイン型店舗が増えていきました。
これが「居酒屋」のはじまりと言われています。屋台ルーツや茶屋ルーツなど様々なルーツが交錯し、江戸の外食産業は大いに発展しました。幕末の頃には1万件以上の居酒屋があり、江戸っ子は仕事前に1杯、仕事中に1杯、帰宅して一杯、風呂上がりで一杯、寝酒で一杯……と。
特に職人や肉体労働をされる方は、とにかくよく酒を飲んでいたそうです。
景気づけの一杯、駆け付けの一杯、ゲン担ぎの一杯、様々な理由をつけてるけどただ飲みたいだけ。現代のお父さんとあまり変わらないですね。
「アルコール消毒や!」とかよく言ってますよね(;´・ω・)
「火事と喧嘩は江戸の華」と、以前の記事でも書きましたが、江戸界隈にかなり酔っ払いが多かったので、日常的に喧嘩が発生しやすい状況もあったようです。
このように居酒屋の増加とともに狼藉をはたらく者が増えたため、酒嫌いの将軍徳川綱吉は「飲み過ぎはダメ、嫌がっている人に無理やり飲ませちゃダメ。」とお触れを出したほどです。
「生類憐みの令」などについても、悪法の側面ばかり強調されますが、実は江戸の風紀と治安を守るコンプライアンス公方だったのかもしれませんね。
(; ・`д・´)💦
酔っ払いを「ズブ六」と呼んでおり、よく落語や戯作にも登場します。
ほろ酔いの「ズブ三」~嘔吐で目も当てられない「ズブ十二」までのレベルのうち、絡み酒レベルを「ズブ五」、酩酊レベルを「ズブ六」と言っていたのが由来となっております。
それから、店のランクにもよるかと思いますが、給仕をしてくれる看板娘なる女性は、あまりいなかったそうです。居酒屋は酔っ払いや無法者が集まる危ない場所との認識があったため、女性や子供は容易に近づかなかったそうです。
◇
明暦の大火後に江戸の町に増えた居酒屋をはじめとする外食産業。江戸の町人の胃袋を支えた、江戸の文化そのものと言っても過言ではないかと思います。
今一番大変な時期かもしれませんが、応援していきたいと思っています。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?