冬、京都大原にて 建礼門院に想いを馳せる。
この冬、ご縁あって京都大原に出かけることがありました。まったく覚えていませんが、中学生以来です。
大原は洛北に位置し、比叡山にもほど近く三千院など天台宗の寺院が散在するエリアです。四方を山に囲まれており、とても静かな土地のため、古くから出家や隠遁の地として知られておりました。建礼門院徳子、西行、鴨長明などが憂世をはなれ、ここ大原で隠棲していたと伝えられております。
華やかな洛中とのコントラスト。空気も清らか。年末年始の降雪で水墨画の世界ような、なんとも言えない寂寥感
(´ー`)ンー
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京都市営地下鉄烏丸線の終点「国際会館駅」を降りると、駅構内にかわいらしい大原女の像があります。
(´・ω・`)?大原女の、この頭に載せているのは……?
大原女は、薪や柴(古くは炭)を頭に載せて、洛中で行商をしていた女性たちのことです。
島田髷に手拭いを被り、頭に薪を載せるという独特なスタイルでして、狂言や舞台に登場するほか、日本画の画題にもよくなっています。戦後のエネルギー転換によって姿を消し、現代では京都の「時代まつり」や「大原女まつり」などでしかみることはありません。(逆にそういった伝統が昭和初期まではあったのですね。)
この独特なスタイルが確立された年代には諸説ありますが、この地で余生を送っていた建礼門院徳子の侍女が山仕事をする際の装束を模したとも言われてます。
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そうか。建礼門院は壇ノ浦で亡くなったわけではなく、入水後に救い出されたのだったな、と思い出しました。安徳帝の受難のとき一緒にいたのは二位尼(徳子の母)だったのですね。
建礼門院徳子(平徳子)は平家滅亡後許されて出家し、ここ大原の寂光院に庵を結び、平家一門の菩提を弔いながら暮らしたといわれております。
徳子が寂光院に移り住んだある日、かつて仕えた建礼門院右京大夫が様子を伺いに訪れました。
荒れ果てた庵に、わずか3、4人の平家ゆかりの侍女と住まわれている(ヘッダー参照)、変わり果てた尼姿の徳子を見て涙し、右京大夫は以下の歌を残したといわれています。
訳:「今が夢なのか」、「それとも昔が夢なのか」よくわからなくなってしまい、どうにもこれが現実であるとは思えません。
天下人平清盛の娘にして国母(天皇の母)にまでなった、かつての徳子の栄華を知る右京大夫からみれば、信じられない光景だったことでしょう。
有名な「平家物語」は全十二巻ののち、この徳子の晩年を描いた灌頂巻という最終巻があり、徳子の死去(女院死去)をもって物語が終わります。
特に灌頂巻「大原御幸」は最終巻のクライマックスです。
後白河法皇(夫である高倉天皇の父)が寂光院の徳子の元を秘かに訪れた(御幸された)やりとりが記されています。
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続く「六道之沙汰」において、徳子は六道すべてを在世で辿ったと語ります。
六道は仏教で天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道のことで、生きとし生けるもの(衆生)すべてが業によって、この六道を輪廻転生するものとされています。(つまり生命の一生は原則「一道」)
徳子は「清盛の娘として生まれ(人間道)、国母として栄華を極め(天道)、戦に巻き込まれ(修羅道)、放浪の末飢餓に苦しみ(餓鬼道)、一族の死を目の当たりにした後も取り残され(地獄道)、夢の中で二位尼に竜畜経(畜生道。諸説あり)について語られ、一族を弔いながら暮らしている。」と語っています。
それを聴いた義父 後白河法皇は、「一生のうちで六道すべてを目の当たりにするとは珍しいことだ」と涙したといわれていおります。
諸行無常 盛者必衰
平家物語は源平の栄枯盛衰を描きつつ、時代に翻弄されたひとりの女性の終焉をもって幕を閉じます。
徳子は、ここ大原の地で亡くなったと伝えられており(没年不詳、没地も諸説あり)、寂光院に隣接する大原西陵にしずかに眠っております。
また全国の水天宮では安徳帝とともに祀られております。
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徳子もこの寂寞たる山道を寒さに震えながら歩いていたのでしょうか。
三千院も古くからあるほど近い寺院ですので、足をお運びになったかもしれませんね……。
気温マイナス2℃。そんな古の姫君に想いを馳せ、静かに雪の大原を見渡しています。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
以前、平家物語をベースにしたお話を書きました。もしよければこちらもご覧になっていただけると幸甚に存じます。建礼門院徳子の侍女で「横笛」という女性の物語です。「滝口寺伝承(2)」の続きも現在執筆中です。