見出し画像

~フツーのハケンが大学院の講師に~ そんなわたしの新たな挑戦

みなさん、はじめまして。
心理士のタマキです^^

わたしは現在、カウンセラーを育成する仕事、
カウンセラーを支えるスーパービジョンの仕事、
開業支援の仕事をしています。

肩書は、
臨床心理士、公認心理師、大学院非常勤講師です。

ここだけ聞くと、
なんだかすごい人のように思われることが多いのですが、
カウンセリングを学び始めた頃は、ごくフツーの派遣社員でした。

生まれも育ちも学歴も、何ら自慢できるようなことはなく、
勉強だって苦手。

そんなわたしがここにたどり着いたのは、
いくつかの偶然が重なってのことです。

…と言っても、信じられない方もいると思います。

タマキ先生だからできたんでしょう?
もともと優秀だったんだよね?
そんなふうに思われる方もいらっしゃるかもしれません。

そこで、これまで決して語ることのなかった
現在の仕事にたどり着くまでの歩みを
お話しさせてください^^

✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼

わたしは、とある地方で育ち、
就職氷河期と言われた時代に、社会人一年生を迎えました。
男女雇用機会均等法が施行されて間もなくの頃のことです。

一番初めの仕事は、建築設計の仕事でした。


男女間の給与格差やお茶くみは当たり前、
女性は名刺を持たせてもらえない…という時代でした。

男性と同等に扱われないことに納得がいかなかったわたしは、
わずか2年で退職。
とある住設機器メーカーに転職します。

そのメーカーではそれなりにやりがいのある仕事をしていましたが、
残業がとても多く、
残業代がきちんと支払われないことがまかり通っていました。

リーダーの仕事を任されていたわたしは、
自分よりも年上の方の指導役を担っていました。

若かったわたしは、壁にぶち当たることも多く(今もですが💦)、
試行錯誤しながら自分なりに懸命に仕事をしていました。


そんなある日、同僚の方が亡くなります。
わたしにとって、たった一人の同僚でした。

第一報を受けたのは、わたしでした。

あまりの衝撃に、身体の震えが止まらず、
車を運転できなかったことを、今も覚えています。

同僚と最後に会った日、
休憩時間に一緒に飲んだお茶は、同僚が淹れてくれたお茶でした。

いつもと同じお茶のはずなのに、
それまで飲んだことがないくらい、
とても美味しく、香り豊かなお茶でした。

そのことを伝えると、
「美味しく淹れようと思って…」とおっしゃいました。

その時の同僚のキラキラした笑顔と、お茶の色や味を、
今も忘れることができません。


突然やってきた同僚の死の衝撃からなんとか日常を取り戻したころ、
今度は、
新しくやってきた上司からパワハラを受けます。

何をやっても怒鳴られる日々に、1年間耐えましたが、
食事も睡眠も満足にとれなくなり、
いつしか、笑えなくなってしまいます。

「このままでは自分がダメになる」
「ここでなくともお金は稼げる」

そう思ったわたしは、転職することにしました。

退職の意志を伝えると、
そこでもまた上司に怒鳴られます。

すったもんだした挙句にようやく退職することができましたが、
その時、
「自分の身は自分で守るしかない」
と強く思いました。


転職後、わたしは「法律」を学び始めます。
いざというとき、法律が自分を守ってくれると思ったのです。

通信制大学の法学部に入学し、
働きながら単位を取得しました。

法律を学ぶことはとても楽しかったのですが、
ある日、
「もっと身近なところで対人援助がしたい」
と考えるようになりました。

なにがあるんだろう…
なにを学べばいいんだろう…

そう思いながら探し始めたわたしは、
「産業カウンセラー」という資格があることを知ります。

2005年のことです。
迷わず受講を決め、法学部は中退しました。

養成講座は4月スタート。
働きながら通える土曜日のコースを選択しました。


養成講座が明日から始まるという金曜の夜のことです。
車を運転しているとき、
突如として
「家族問題と向き合うときが来た」と感じました。

それまでずっと封印してきた過去が、
急に目の前に立ち現れた感覚がありました。

物心ついたときから家族問題に悩まされ続けたわたしは、
それらの過去と向き合う「とき」がきたことを悟ったのです。

そこからのわたしは、
〝生きるためにカウンセリングを学ぶ〟感覚がありました。

家族問題に悩まされ続けてきた当時のわたしは、
生きる意味が全く分からず、
生まれてきた意味さえわからない。
「いつまでこの長い人生が続くのだろう…」
考えてばかりの日々でした。

カウンセリングを学ぶ傍ら、
過去と決別するためのカウンセリングを受け始めました。


その間、家族とは距離を置き、
連絡も断ちました。
母には申し訳なかったけれど、
当時のわたしはそうするしかなかったのです。

過去の苦しみと向き合うことは非常に辛く、
七転八倒しながらカウンセリングを受け、
並行してカウンセリングを学ぶ。

当時の記憶はあまりありません。

唯一はっきりしていたのは、
「いつかカウンセラーになるためには、
過去の問題にしっかりと向き合い、解決しなければならない」

ということだけでした。

貪欲に学ぶうちに、
資格の数はどんどん増えていきました。

やがて、通信制の心理学部に通い始めたわたしは、
2011年に卒業年度を迎えます。

その年の3月、東日本大震災を目の当たりにします。


生まれ育った東北の地の惨状に、
「心理学なんて、なんの役にも立たない」と、
学ぶことを中断します。

震災で景色が変わってしまった故郷の景色に、
無力感しかありませんでした。

当時は神奈川県に住んでいましたが、
神奈川の地に、その想いを共有できる人は、誰もいませんでした。

しかし、
時薬とはよく言ったもので、
震災から少し時間が経ったその年の夏、
大学院を受験してみようかな…と思えるようにまで、
わたしの心は回復しました。

ですが、働きながら大学院に通学することは、容易ではありません。
夜間と土曜だけで卒業可能な大学院は都心にしかなく、
通学の時間を考えると、
授業のある日は毎日仕事を早退しなければ、授業に間に合いません。

「そんなの無理だよ…」
「予備校に通ったって、現役の学生に勝てるわけない…」
「統計も、英語も、研究計画だって、ちんぷんかんぷんだし…」

自分を諦めさせるための理由をこねくり回します。
そして、
大学院受験を諦めさせるための理由を仕事にしようと考えたわたしは、
当時の上司に尋ねます。

「もしも大学院に合格したら、
授業がある日は毎日早退しなければなりません。
…そんなの、ダメですよね?」と。

すると、
上司は一言、

「いいんじゃね??」

と、わたしに返しました。

ここで引き返せなくなったわたしは、
慌てて予備校を探します。


マンツーマンで指導してくれる予備校を探しました。
8月までなにひとつ受験の準備ができていないわたしが
なんとか受験に間に合わせるためには、
マンツーマンで指導を受けるしかないと思ったからです。

予備校は池袋。
自宅からは片道2時間の距離です。

申し込む時期が遅かったので、
日曜の20時からの枠しか空いていませんでした。

家族連れの人々で賑わう日曜夕方の最寄り駅。
18時台の特急で新宿に向かう日々は、本当に辛かった…。

授業が終わると帰宅は24時近く。
翌月曜日は、いつものように起床し、仕事に行かなければなりません。

今思い返しても、
一番辛かったのが予備校通いでした。

現役の学生時代に殆ど勉強していなかったわたしが
専門用語だらけの大学院受験。

英語と統計の勉強に挫折したわたしは、
予備校の講師に何度も反対された社会人枠で受験します。
(社会人枠は科目数が少ないため、倍率がとても高いのです)

8月からの予備校通いでは秋受験には間に合わず、
当然ながら、不合格。


不合格になった後も、春受験を目指して予備校通いを続けていましたが、
学んでも、学んでも、手ごたえを感じることができませんでした。

それまであまり勉強したことがなかったわたしは、
勉強が辛すぎて、冬になると予備校に通うのをやめてしまいます。

ラストスパートで泊まり込んだ年末年始のカンヅメ先からも、
英語の勉強が辛くて逃げ出します。
そのくらい、詰め込むだけの勉強が辛かったのです。

最後は独学で臨んだ大学院受験でしたが、
2月の春受験でなんとか合格。


気づけば、17倍の難関を突破していました。

予備校に結果報告の電話を掛けた時の、
「信じられない」という講師の唖然とした様子を
今も覚えています。

ようやく掴んだ大学院入学の権利。
入学金を振り込まなければその権利はなくなってしまいます。

手続きにミスがないように…。
緊張しながら向かった銀行では、
窓口の方に「ご父兄の方のお手続きは…」と言われてしまいます。

小さな声で、

「…いや…あの…本人なんです…」

と告げます。
中高年になってから大学院に通うことの
(違う意味での)厳しさを思い知りました…。


大学院の入学式でも、卒業式でも、
「ご父兄席」を案内され、
映画館でも駅でも、
学生証を提示するたびに二度見・三度見されます。

その度に、
「…いや…あの…本人なんです…」と告げる。

親子ほどの年齢差の現役学生と共に学ぶ大学院生活は、
そんな経験の連続でした。笑


大学院に入る前から臨床経験を積んでいましたが、
大学院1年生の冬にスキルアップのために転職。
都内の大学の学生相談室で、
常勤カウンセラーの仕事を始めます。

しかし、
そこで信じられない出来事に遭遇します。

なんと…
先輩の心理士から、執拗な嫌がらせを受けるのです。

わたしの中にあった心理士のイメージとはかけ離れた現実に、

「カウンセラーって、資格じゃないんだな…」

という価値観が生まれます。

そんな職場環境に耐えながら臨床経験を積み、
なんとか2年で大学院を卒業します。

卒業後は、
「絶対に1回で合格する!」と意気込み、
現役で大学院を卒業した若い方たちに負けないように、
テキスト代に高いお金をかけ、
臨床心理士試験に臨みました。

無事に臨床心理士の試験に合格したと同時に、
エスカレートする先輩心理士からの嫌がらせに限界を感じていたわたしは、
学生相談室の仕事を辞め、帰郷することを選択します。

帰郷したわたしは、
スクールカウンセラーの仕事に就きます。

新しく出会ったスーパーバイザーのおかげで、
臨床力が上がっていくのを実感しました。


そんな2019年1月の、雪の降る朝、
とある大学院の教授から、一通のメールが届きます。

「うちの大学院の非常勤講師になってほしい」

あまりの出来事に、一瞬で目が覚めます。

「大学院生を指導するだなんて、わたしには無理…」
「予備校だって通い切れなかったし、統計だってできない…」

そう思ったわたしは、
ありとあらゆる理由をここでもこねくり回し、
なんとか断ろうとします。

しかし、運命とは不思議なもので、
カウンセリングを学び始めた2005年以降、
七転八倒しながらカウンセリングを受けながら学び、
取得したいくつかの資格。

それらの資格が全てある人なければ、
その授業はできない、
ということでした。

わたしが断ってしまうと、
大学院は学生を募集できなくなってしまいます。
養成カリキュラムは学部と併せて6年間なので、
心理学部でも、学生を募集できなくなってしまいます。

自分の意志では抗うことができない力を感じたわたしは、
教授と何度かメールをやり取りした後、

「…わかりました…」

と弱々しく答えました。


わたしが担当する、そんなレアな授業は、
言い替えれば「人気がない授業」とも言えます。

セオリー通りに実施すると、あまり面白みがなく、
眠くなること必至の内容でもあります。

大学院に来て初めてその分野を学ぶ学生たちの
役に立つにはどうすればいいのだろう…。

非常勤講師になることが決まってから授業が開催される8月まで、
ひたすら考え続けました。

やがて、ふたつの答えにたどり着きます。

◇現役でカウンセラーの仕事をしている非常勤講師だからこそ
 伝えることができる〚現場のリアル〛を教えよう
◇社会人一年目から結果を出せる〚骨太の心理職〛を育成しよう

そう決めました。

その2つをテーマに構成したカリキュラムで臨んだ
初めての授業。

1コマ目の授業終了後、

「タマキ先生…!
この授業、めっちゃおもしれぇ!!」

目を輝かせてそう話す学生たちの反応に、
カウンセリングの技術を伝える楽しさを実感しました。


大学院での仕事は順調でしたが、
それ以外は公的機関の非常勤カウンセラーとして働いていました。

日本のカウンセラーは非常勤の仕事に就いている人が多く
わたしもその一人だったのです。

大学院も非常勤、公的機関の仕事も非常勤。

非常勤の仕事だけで生計を維持することには
常に不安がつきまとっていました。

公的機関の仕事は、予算次第で年収が100万円単位で変動します。
毎年、年度末が近くなるたびに、

「来年度はどのくらいの仕事を請け負えるのだろう…」

そんな不安な気持ちを抱えながら
クライエントの前では何事もないかのように振る舞う。

クライエントにどこか嘘をついているようで、
「非常勤」という不安定な身分が、虚しくもありました。

そんなある年、
公的機関の仕事を全て失うという事態に見舞われました。
わたしだけではなく、他のカウンセラーも同じ状況でした。

実績がどれだけあっても、現場でどれだけ評価されていても、
予算次第で仕事がゼロになってしまう…。
それが非常勤の仕事の現実です。

それまでも、非常勤の仕事をしながら、
副業でカウンセリングを教える仕事や
個人カウンセリングを請け負う仕事はしていましたが、
それだけでは生計を維持できるほどの収入はありません。

自分の身に降りかかった事態に、愕然としました。

こんなことになるなら、
個人開業の仕事にもっと力を注いでおけばよかった…

しかし、後悔したところで
現実は1ミリも変わりません。

ここで終わってはならない。
なんとかしなければ、
20年間学び、積み上げてきた実績が、ゼロになってしまう…。

そう考えたわたしは、
マーケティングを学び始めました。

自分がきちんと安定収入を得られる知識を身に着けることで、
自分と同じように苦しむカウンセラーを減らしたいと考えたからです。

しかし、起業スクールの選び方を知らなかったわたしは、
最後にたどり着いたスクールに出会うまで、
かなりのコストを費やしてしまいました。

カウンセラー専門の起業スクールでもなければ、
マンツーマンで話を聴いてくれるスクールでもない。
高いお金を払ったのに、結果に結びつかない…。


いつになったら収入に結びつくんだろう…

半ば絶望感に近い思いで情報を収集しているうちに、
あるスクールに出会います。

そのスクールは、
資格取得後のカウンセラー専門のスクールで、
マンツーマンで指導を受けることができます。


カウンセラーで、かつ大学院で講師をしているという立場上、
相談できる場所が限られているわたしは、
そこでようやく本音で起業について相談できるようになりました。

そして、みるみる結果を出せるようになりました。


マーケティングを学んだわたしは、
自分自身の数々の苦い経験を踏まえ、

◇カウンセリングの学び
◇マーケティングの学び
◇開業後の支援(スーパービジョン)

これらを1か所でカバーできるスクールをつくることにしました。

カウンセラーの資格は、
資格を取得するだけでもかなりのコストがかかります。

資格取得から開業後の支援までトータルでサポートできれば、
できるだけコストを掛けずに、
安定収入を実現できるカウンセラーを増やすことができます。

カウンセラーを目指す方は、
もともと志が高い方ばかりです。

そんな高い志を持ったカウンセラーの方たちに技術支援をすることで
より質の高いサービスを、
支援を必要としている人々に届けることができる。

わたしが関わることのできるクライエントの数には限界がありますが、
わたしの元で学んでくださったカウンセラーが、
たくさんの方を救ってくださることで、

より多くの方を幸せにすることができる。

これほど幸せな仕事はない…

そう感じています。


わたしのモットーは、
資格も学歴も問わず、カウンセリングを学びたい、
カウンセリングを届けたいと考えている人々に、

1. カウンセリングの技術を伝え
2. マーケティングを教え
3. 安定収入を実現できるカウンセラーを育成する
4. 開業後もサポートすることで
5. 必要な支援が必要な人に届く社会を実現したい

です。

これから出会うカウンセラーの方たちと共に、

非常勤が当たり前、安定収入が難しいという

「日本のカウンセラー業界の当たり前」を変えていく…。

それがわたしの使命だと考えています。


これまで決して語ることのなかった
現在の仕事にたどり着くまでの歩み。

長くなってしまいましたが、
最後まで読んでいただき、ありがとうございました^^

LINE公式アカウントはこちらから ↓ ↓ ↓ 

Instagramのアカウントはこちらから ↓ ↓ ↓


いいなと思ったら応援しよう!