page.18 信念の主体
本書 p.15 では,信念について次のように記した。
信念は,次のように,専らプラグマティックに定義される。すなわち,それが内的に,形而下に作用するような主体たるアバターの諸言動である。つまり,観測ないし知覚可能であるような言動を伴わないものは信念としてナンセンスであり───むしろ,そんなものは信念として認められなくてよろしい───伴うものが,信念として有意味であり,それら観測ないし知覚可能な諸言動に依って,信念はその内容を定められる。
うえの引用は,端的には信念であるための必要十分条件として,形而下への作用を定めているが,このような定義から,少々驚くべき帰結が得られる。すなわち,この“形而下への作用”を与える主体は,なにも『人』に限られない,というものである。
たとえば,形而下に作用をもたらす主体としては,『犬』でもよいし,『イルカ』でもよい。また,『スカイツリー』であったり,『教室の机』でもよい。或いは,そのへんに転がっている石ころでもよい。
この全ての信念体系を,われわれが会話やメモに用いる通常の言語によって記述出来るかといえば難しいかも知れないが,本書の定義に純粋にしたがえば,彼らにも信念を───少なくとも擬似的には───認めることが出来るし,潜在的には,なんらかの言語による網羅的記述も,可能なはずである。
言明の作用によるのではなく,事実として直接所与される命題たちを,本書では『プロトコル命題』と呼ぶ。(言明も,事実として捉え直すことは可能である。)
このように定義されたプロトコル命題の重要な特性として,その存する静的世界において不可謬性が認められる。したがって,その存在に矛盾するあらゆる命題は,その静的世界において偽の命題として扱うのが穏当であろう。このような作法は,経験主義と強く整合する。