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頭で考えると小学生以下の思考力になる【言語化のススメ】

頭の中だけで何かを考えるのは極めて効率が悪い。

下手をすれば小学生以下のレベルにまで思考能力が落ちる。

これを理解するには、哲学者のダニエル・デネットが考えた思考実験を例にすると分かりやすいだろう。


まず目を瞑る。

次に一匹の「虎」をできるだけリアルにイメージしてほしい。

さて、頭の中に描いた虎のシマは何本あるだろうか?


・・・・・・よほど特殊な脳の持ち主でない限り、この問題に正解するのは不可能だろう。

ところが虎を紙に描いたのなら、小学生ですら容易にシマの数を答えることができる。


「かけ算」で考えてみてもいい。

三桁のかけ算を暗算で解ける人間はそうそういない。

ところが紙を用意して筆算を使えば小学生でも楽々解ける。


脳みそだけに頼った思考はそれだけ効率が悪いのだ。


反芻思考


人はしばしば思考の堂々巡りに陥る。

気がつけば何日も同じところをグルグルしていた、なんて話もそう珍しくない。

むろんそれは時間の無駄遣いだ。


思考を文字にすれば繰り返しの頻度は大幅に減らせる。

頭の中が整理されることに加え、過去に考えた内容を一瞬で思い出せるからだ。

RPGゲームに例えるなら、文字で記録しないのはセーブ機能を使わずゲームオーバーのたびに毎回はじめからプレイするようなものである。

自分を安心させるため十分に精神をはたらかせることができない私は、自分の古い決心を思い起こす必要がある。その決心をしたときにはらった周到な配慮、細心の注意、真率な心がそのとき思い出によみがえり、私の確信をすっかり取り戻してくれる。

ルソー『孤独な散歩者の夢想』今野一雄訳,岩波書店.


書くから書ける


思考というのは頭の中ではなかなか進展しない。

これまで書いてきた記事にしても、いざ文章を書き出すまでは具体的内容がほとんど浮かんでいなかった。

なかには5,000文字以上の記事も存在するが、執筆前からそれだけの文量が用意されていたわけではない。

せいぜい小見出しの仮タイトルが数個浮かんでいる程度だ。

なんとなく漠然と書きたいテーマはあっても、それをどのように表現すればいいのか見当もつかないのである。


ところが1、2行ほどなにか書いてみると、文章はスラスラ進んでいく。

考えを文字にしているというよりも、「言葉が向こうから勝手にやって来る」という奇妙な感覚だ。

これは頭の中だけで考えていたのではなかなか起こらない。

私の書くものは随筆で、文字通り筆に随うまでの事で、物を書く前に、計画的に考えてみるという事を、私は、殆どした事がない。筆を動かしてみないと、考えは浮ばぬし、進展もしない。

小林秀雄『考えるヒント2』文藝春秋.


創造/発見


一度動き出した文章はどこに辿り着くか自分でも分からない。

執筆前に漠然とイメージしていた方向に進むこともあれば、思いもよらない方向に進んでいくこともある。

途中で矛盾に気づいたり、より説得力のある考えが浮かんだりして、当初の考えとはまったく別の結論に至ることさえ珍しくない。


あるいは全然関係ない話に脱線し、それが別の記事の種になるケースもよくある。

どれだけ必死に探しても見つからなかった種が、文章を書いていると自分からひょっこり顔を出すのだ。

つまり書けば書くほどネタは出てくるし、書かなければ書かないほどネタは出てこない。


頭に浮かんだことはすぐ忘れる


文章を書くようになってから5年ほど経つ。

その中で痛感しているのがメモの重要性だ。

自分で思っている以上に人はいろいろなことを忘れているのである。


たとえば、僕はほんの数日前の食事メニューですらまったく思い出せない。

それどころか数秒前の出来事すら思い出せないことがよくある。

なにか忘れ物を取りに部屋に戻ったはずなのに、部屋に行くまでの間にそれが何だったか忘れてしまうのだ。


「思いついたこと」も同じで、メモを取らないとあっという間に忘れてしまう。

だから思いついたら即座にメモをとらなければならない。

ちなみに僕は日記や読書ノートなどを「Notion」に、ちょっとした思いつきなどを「Google Keep」に書きとめるようにしている。

自分でおこなった貴重な省察は、できるだけ早く書きとめておくべきである。これは、当然な心がけである。われわれは自分の体験でさえ時には忘れてしまうのであるから、まして自分が思索したことは、どれだけ忘れ去るかわからない。それに、思想というものは、われわれの望みどおりの時にやってくるものではなく、気まぐれに去来するものなのである。

ショーペンハウアー『知性について』細谷貞雄訳,岩波書店.


慰め


書くことの最大の効用は「慰め」だ。

とりわけ僕のように世間一般と感受性がズレている人間の場合、自分を慰める文章は自分にしか書けない。

もちろん感受性がある程度似ている人も(かなりレアだが)存在するし、そうした人の書いた文章はしばしば癒しになる。

ただどうしても他人には手の届かない痒い部分も出てくるのだ。

そこはやっぱり自分でカクしかない。


そういう意味でいえば、共感の得られない文章も決して捨てたもんじゃない。

共感する人が少ないということは、裏を返せばそれだけ独自性のある内容とも言えるのだから。


いかに自分独自の痒いところに手を届かせるか。

それが書くことの醍醐味だと僕は思っている。

書いたものを他人が読んでくれればいいわけですが、読んでくれる人がいなくても、うまく自分の考えていることや感じていることが文章の中で言えていたら、それが自分の慰めになるということをやがて発見しました。人が読む読まないは二の次で、自分の言いたいことが自分でわかれば安心する。つまり、書くことはぼくにとって自己慰安になっていたのです。

吉本隆明『ひきこもれ』大和書房

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