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暗闇のエーテル(第10章 ミンボウ)

 ぴっぴはミンボウという言葉だけを頼りに歩いた。しかし何処にも見当たらない。相変わらず電飾が目に痛い。

 とりあえず伯母に見つからない所まで小走りで移動した。一年以上部屋の中に篭りきりだった為久しぶりの外出に早くも疲れている。廃墟になった病院にある煉瓦の植え込みに腰掛け、少し休む事にした。

 日が傾き夕闇が近づいている。ポケットからグニョグニョに折れ曲がったミンボウのチケットを取り出すと広げ、目を通す。

「おねぇさん。」

 ふいに声をかけられた。ぴっぴが顔をあげるとオレンジ色の安っぽい虎の着ぐるみを着たキャッチセールスの男が立っていた。

「おねぇさんカラオケやってかない?一人カラオケ。最近流行ってるでしょ?」

 カラオケという言葉を初めて聞いた。怯えながら顔をあげる。

「…カラオケ?ぴ…ぴっぴはここにいきたいのです、ミンボウ。」

 そう言うとセールスの男は先程までの猫撫で声を一瞬で消し去り、面倒臭そうに答える。

「ミンボウ、そこの角曲がった四階。」

 そして何処かへ行ってしまった。ぴっぴはそれを見届けると立ち上がり、男の言った所へ向かった。角を曲がると、立派な廃銀行の建物の横に、細長い建物が物置のように建っていた。

 看板などは一切出ておらず、鍵もないベコベコの郵便受けにミンボウとだけ書いてある。ぴっぴは狭くて暗いエレベーターのボタンを押す。

 一階に到着すると舞台が始まる時のようなブザー音で扉が開いた。乗り込むと4のボタンを押す。

 到着するとエレベーターはドワンドワンと二、三回縦に揺れ、再び耳に響くブザー音で開いた。いきなり店内だ。

 煙草の煙で空気が悪い。突き当たりには薄暗い中にカウンターが見える。内側にはどう見ても大学生にしか見えない店員が歳に似合わぬバーテンダーのようなベストを羽織り、微妙にサイズの合っていないぶかぶかの安っぽいシャツを着ている。顔にはニキビが多数存在し、心もとない表情でぴっぴを迎え入れる。

「いらっしゃいませー」

 ぴっぴがカウンターの前でぼうっと突っ立っていると、店員は続けて

「お客様、当店のご利用は初めてですかー。」

と尋ねる。ぴっぴはぎこちない動きで

「あ、は、はい。」

 と答える。そして手に持っていた割引券を恐る恐る店員に差し出す。店員は割引券に目を落とすと、表情を変えずに棒読みで続ける。

「はい、ではそちらの券ですね、お帰りの際にレジにてお渡しください。では、当店の利用方法をご説明します。」

(なんて、こころのこもっていないしゃべりかたなんでしょ。)

 実は店員の背中にはジッパーがついていて、中からロボットが出てくるのではないかと疑った。

「ではお部屋にご案内します。こちらへどうぞー。」

 店員は関節を曲げずに右手を身体と垂直になるように上げた。ぴっぴの顔を見る事もない。態とらしい動きの店員に案内されるまま、後ろについて行く。

 部屋の扉はプラスチックで出来ており、センスの悪いパチンコ屋のようなシールで部屋番号が書かれている。部屋と部屋とを仕切っている壁も低く、取り敢えず隣が見えない程度についている。

(よっかかったらたおれちゃいそうです。)

 部屋に入ると目の前にパソコン、そして個室に対して大きすぎるリクライニング付き黒皮の肘掛け椅子がある、というよりはそれしかない。店員は相変わらずロボットのように話し続ける。

「当店インターネットのご利用と、マンガが読み放題となっております。また、ドリンクは使用時間中飲み放題となっております。それではごゆっくりお過ごしください。」

 店員は最後の最後まで壁に向かって喋っているように自分が伝えたい事だけ伝えると部屋を後にした。ぴっぴは取り敢えず椅子に腰掛け、画面を観てみる。見知らぬマークが沢山ある。

「…なんでしょうか。これは…。」

 操作方法が全くわからないので誰かに聞こうと部屋を出る。扉を開けようと取っ手に手を伸ばすと、その下に蹴り飛ばしたらすぐにでも飛んで行ってしまいそうなスライド式の鍵を発見した。

 灯台の農器具庫で見たものと同じだった。部屋を出ると先程のロボット店員を探す。しかし受付に店員は居ない。

 振り返り部屋へ戻ろうと振り返ると、飲み物を汲んでいた男とぶつかる。コカコーラがコップから飛び出し宙を舞った後、重力に逆らえずぴっぴと男にべっとりかかった。

「あわ、すみません…。」

 男はため息をつくとぴっぴの言葉を無視し、ポケットからハンカチを出してコーラを拭き、不機嫌そうにドリンクバーに備えてあったおしぼりを二三個掴むとそそくさ部屋へと戻って行く。ぴっぴは男の行く手を見つめる。

バウン

 ドアは軽快に弾んで閉まった。ところが立付けの悪いドアは少し隙間が空いている。ぴっぴは静かに近付きそうっと部屋の扉を片目が覗ける程開け、背後から男の様子を伺う。

 男はパソコンに向かい、マウスをカチカチとクリックする。画面にブロンドヘヤーの裸体女性が現れた。同時に女性の喘ぐ声がパソコンから流れる。ぴっぴは突然の事に驚いて、頭が真っ白になる。

 男は焦って机の上にあったヘッドフォンを手に取ると、パソコン本体に接続し、声は聞こえなくなった。その後も男は貧乏揺すりをしながら画面を真剣に見つめている。

 ぴっぴは恐ろしくなり扉を閉めると一目散に自分の部屋へと戻り、慌てて鍵をかける。椅子の上に正座すると背筋を伸ばし画面を見つめた。頭の中でブロンド女性の喘ぎ声が鳴り響く。目は泳ぎ、肩や腕が小刻みに震えていた。

「おお…おお…。」

 ぴっぴは込み上げて来る不快感を抑えつつ、眉間に皺を寄せると両耳を手で塞ぎぎゅっと目を瞑った。

 少し落ち着くと片目を開け、辺りに危険がない事を確認する。何も起こらないのでほっとし、店内の空気の悪さから喉を潤したくなった。

 ぴっぴは先程男がドリンクバーでコーラを注いでいたのを思いだす。そこで部屋を出てコーラの注ぎ方を店員に教えてもらうと紙コップを持って部屋に戻った。

 モニターを見るとデスクトップの画面は消え、スクリーンセーバーに切り替わっていた。画面には世界地図が映し出されている。地図は一分毎に世界中の地名にスポットを当て、その地域の写真を展開しては世界地図に戻る。

 ニューヨーク、上海、ローマ、主要都市が次々と紹介される。主要都市が終わると次は半島が紹介され始める。

Korean Peninsula Peninsula Valdes

 見た事のない街に、ぴっぴは少しだけ興味を抱いている。そして三番目の半島に見覚えがあった。

Peninsula Pharos

 ファロス島だ。漁師達、洗濯物の干してある通り、教会堂、電車、全てが懐かしい。顔に自然と笑みが浮かぶ。ドラム缶のお風呂、ペンギン型の鉄のやかん、ぴっぴが今まで避けて来た灯台の思い出が、次々と蘇る。

「あれ…?」

 ところが次のスライドを見た瞬間、ぴっぴの表情は一変する。漁師達の船が海の中に浮かんでいる。次々現れるスライドには、ぴっぴの見ていた街とは異なる風景が映し出されて行く。

 灯台も砂漠ではなく海の岬に建っている。ぴっぴが初めて降り立ったあのビーチパラソルでさえ、海岸に沿って埋まっている。

「すなが…ない…」

 スライドが間違えているのではないかと思った。

「そんなはずはないです。」

 ぴっぴは腕を胸の前で組む。

「ぴっぴ君、君がこの無線を聞いてる事を願います。実は私は君に隠していた事があります。」

 ヤポンスカ号に乗った日の事を思い出した。あの時、確かに波の音を聞いたのだ。ぴっぴの表情が曇る。

 スライド写真が終わると深く腰掛けた。体操座りをし膝の間に顔を埋めた。

(ぴっぴのめには、ほんとうのものはみえないんです。)

 その言葉を何度も頭の中で繰り返した。

(はだかのおんなのひとも、ジッパーつきのてんいんさんも、ほんとうはここにいないんです。)

 頭の中には出会った人物が描き出され、そして一人ずつ消えて行った。伯母…祖父母…医師…看護士…沖…女学生…クーリン…アンドリュー…次は母親という所までくるとぴっぴは顔を上げた。

 慌てて無表情のまま部屋の鍵を開ける。そして受付にロボット店員が居ない事を確認すると、一目散にエレベーターに乗り込みミンボウを後にした。

 辺りはすっかり暗くなっている。ぴっぴは店の裏側まで素早くまわり込み、その後大通りまで出るととぼとぼと歩いた。大通りは相変わらずフナムシと火の玉が交互に通行している。ぴっぴはフナムシに紛れて横断歩道を渡る。

(ふなむしもひのたまもありません…ありません…ぜんぶないんです。ぴっぴはあたまがおかしいんです…。)

 念仏のように自分に言い聞かせながら歩き続ける。

 気がつくとシャティエンの入り口まで来ていた。道は街の中心に向かって緩やかな下り坂になっており、綺麗に整えられた植木や芝生はクリスマスイルミネーションで装飾されている。

 広場には街のシンボルマークの噴水があり、透き通るセロハンのようなブルーの照明が白へのグラデーションになっていた。

 周囲は水しぶきで幻想的に霧がかかり、左右にはネオシティからの幹線道路が続いていた。ブランドショップやレストラン、カフェの扉でさえ、一流ホテルのようにドアマンが扉を開けてくれる。

 行き交うのはデートしているカップルか、身なりの整ったファミリーばかりである。ぴっぴは熱いキスを交わしながら歩いて行くカップルとすれ違うと、自分が見窄らしく一人で歩いている事が恥ずかしくなった。

 公園通りを抜け信号の前で立ち止まる。真横にいたタクシーがウィンカーを出した。古い型の個人タクシーで、黄色い点滅に合わせてカッチン、カッチンと音を立てている。信号は中々変わらない。

 ぴっぴはウィンカーの明滅を感じながら信号の向こう側にある建物を見つめる。高級なブランドショップの洒落た乳白アクリルの内壁は、蜂の巣を中から照らしているように半透明に輝いている。アクリルにははっきりとグレー文字でディジタル時計の数字が映し出されている。

2034.11.25.21:45:51

時計は正確に時を刻む。

2034.11.25.21:46:52
2034.11.25.21:46:53
2034.11.25.21:46:54
2034.11.25.21:46:55
2034.11.25.21:46:56

 光は灯台の記憶を蘇らせ、ヨルシュマイサーの声が頭の中で聞こえた。

『灯台は生きているという事ですよ。一年に一度、目を交換してあげないと動けなくなってしまうんです。』

しかし頭をぶんぶん振る。

「ぴっぴのことが、みんなじゃまなんです。ぴっぴがいなくたって、きっとヨルシュマイサがあたらしいれんずをつくってくれます。だいいちとうだいなんか…ないかもしれないです。ぴっぴのみたものは…まちがっているんだから。」

 そう言い聞かせると、苦い薬を口に含んだような顔をして頭から消そうとする。車道の信号に左折の表示が出るとタクシーはぴっぴの前を曲がり去っていった。そしてぴっぴの顔は暗くなり、頭の中の灯台の灯りは消えた。

(びっぴのとうだいが、しんじゃった…)

 ぴっぴはその場にしゃがみ込むと背中を震わせ、一人泣いた。歩道の信号が青になると横断歩道を歩く人々は踞るぴっぴを避けながら歩いて行く。


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