完全なる休息「休むということ」
休むということ
休むということ、それは罪悪感を感じず、焦ることなく休むことだ。
休むという行為は、私にとって長い間、罪悪感と隣り合わせだった。幼い頃から、頑張ることが美徳で、休むことは怠けだという価値観を知らず知らずのうちに刷り込まれてきた。そのため、「休む」という選択をするたびに、どこか後ろめたさを感じていた。
しかし、コロナ後遺症になりゆっくりとした回復とクラッシュを経験する中で、その考え方が大きく揺らぎ始めた。
シャットダウンする身体
「クラッシュ」は突然訪れる。前触れもなく、エネルギーが尽き果て、全てがシャットダウンする。体が急に「もう無理だよ」と告げてくる瞬間。
指を動かすことすら難しいほどのけたたましい倦怠感、息がしづらい身体、止まらない不安感。それは私の体が私を守ろうと必死にバランスを取り戻そうとしている証拠でもある。身体が回復するまで、私の体はまるで自然と切り替わるように、休息と消化に専念するモードに入ったのだ。
体が強制的に休息を求めているとき、それに逆らうことはできない。逆らえば、さらに深い不調とストレスが私を襲うだけだ。「無理をしない」ということは、決して弱さを認めることではない。むしろ、自分を守り、回復するために必要な強さだ。
細胞や神経系がバランスを取り戻そうとするこのプロセスは、決して心地良いものではない。何もしない時間を持つことや、ただ静かに過ごすことは、新たな挑戦でもある。体を休め、心を癒し、失った自分をもう一度取り戻す、大切な時間だ。
罪悪感と焦り
『今の私には、休むことが必要なんだ』と自分に言い聞かせたとき、心の中で小さな抵抗が生まれた。
仕事をたくさん失い、生活のためのお金も底をつきそうな不安が私を包んでいる。自己責任なのか?このような状況では、休むことがまるで「罪」であるかのように感じられる。焦ることなく、罪悪感を持たずに休むことがこれほどまでに難しいとは思わなかった。
焦りという感情は、時間に対する不安や社会からの圧力から生じるものだと思う。年齢やライフステージによって評価されることも社会の価値観のひとつだ。私たちは常に「何かをしなければ」という強い執着に駆り立てられ、時にはその焦りが自己を追い詰め、心と体のバランスを崩してしまうことがある。
だけど実際には「休むこと」は自分の価値を揺るがすものではない。私たちが本当に大切にすべきは、自分の心と体の健康であり、それを守るために必要な休息を取ることだ。
「休むこと」は決して弱さを示すものではない。
休むことの意味
待ってはくれない社会の中で、どうやって自分を守り、豊かさを見つけていくか。その答えは、時間との向き合い方にあるのかもしれない。
焦ることは自然な感情だ。ただ、その焦りに振り回されて、自分の身体の声を無視してしまわぬように、回復に沿ったペースで進むための静かな時間を持つこと。それが、今の私にとって必要な「休むこと」の本当の意味なのだろう。
焦ることなく、罪悪感を持たずに休むことができれば、それは自分にとって大きな力になる。
だから、休むことに罪悪感を感じる必要はない。「休むこと」それは決して止まることではなく、次に進むための大切な一歩なのだ。私たちがより強く、よりしなやかに生きていくためには、休むという選択を恐れずに受け入れることが必要なのだと、今は心から思う。