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ニーチェは過大評価されすぎ!「ニーチェ: ニヒリズムを生きる」を呼んだ感想

私自身がどうしようもない弱者だと自覚した瞬間に「弱者道徳」について雄弁に語っていたニーチェについてふと思い出したので、どうしようもない弱者の境遇から抜け出すヒントが学べるかと考えて学習し直してみました。


神は死んだ=ヨーロッパ人はキリスト教を信じなくなった

ニーチェの時代の19世紀末には産業革命が起こったことから産業社会システムと資本主義が台頭し、人々はキリスト教よりも自分自身の知能や技術の発展、ひいてはそれらで楽して金もうけすることを考えるようになりました。しかし肝心のキリスト教を信じなくなった結果、無価値な労働と無意味な人生に人々は放り出されました。これをニーチェは「神がどこへ行ったかって?俺たちが神を殺したのだ」と詩的に表現しました。
これは当時のヨーロッパ人の多くが人生に意味を見出せないニヒリストになっていたことを表しています。これはキリスト教を棄教したヨーロッパ人の問題だけでなく、「自分の人生って、生きる意味ある?」と疑問に思ったことがある人間であれば見過ごせない問題であるでしょう。

このようなニヒリズムに一度陥ってしまった者にやれ近代的理性だ天賦人権だのSDGsだのといったあるかどうかもわからない理想を再び植え付けようとしても無駄で、自ら価値あるものを積極的に考案する・創造するのがニヒリズムを克服する理想の人間とニーチェは考えているようです。個人的には「近代的理性や天賦人権に新しい価値を認めてやってもいいんじゃないの?」と思う派ですが(笑)
要するに「キレイごとが嫌いな捻くれ者」が(それも良いことだと思うが)ニーチェ自身やニーチェ信奉者の1つの資質と言えるでしょう。

ローマの貴族道徳とキリスト教の奴隷道徳

キリスト教が生まれる前のギリシャ人・ローマ人の道徳というのは「優れた血筋、知能、判断力、体力、美しさ、富、権力こそ善きものである」という、貴族による強者の倫理でした。
キリスト教はこの強者の倫理とは逆に富や力を分け与えてくれるものに感謝し、同じように弱者同士でも同情し恵みを施そうという「弱いものへの共感・共苦」を善とする虐げられたもの・奴隷たちによる弱者の倫理が説かれました。
強者の倫理が生まれ持った資質によって決まるのに対し、弱者の倫理は他人との関係によって成立するという重要な違いがあります。

現代であればローマ貴族による強者の倫理は「冷酷、権力に傘を着ているだけ」と強く非難されるでしょうが、ニーチェは弱者の倫理こそ問題であると考えています。これを貴族により圧政を敷かれていた奴隷を代表するものとみなして「奴隷道徳」と名付けています。
弱者の倫理というのは基本的に強者への劣等感によって成り立っていて、この弱者の倫理を信じて実践している限り彼らがホントは心の底から求めている「優れた血筋、知能、判断力、体力、美しさ、富、権力」などなどいったものは一生手に入らないというのがニーチェの主張です。
(個人的に「優れた血筋」は別にいらないなかあ〜と思います。正直他は全部欲しいので、強者になりたいところですね。)

このような自分が弱者でありかつその境遇から脱したいと思っているものがまずするべきことは「オレはこんなに良い人間なんだ、貧しい暮らしにもキツい労働にも耐えてる憐れむべき弱者だからだ」という自己欺瞞をやめて、多少キツくてもローマ貴族が振り翳していたような強者の資質を手に入れる他ないのだというのがニーチェによる「貴族道徳」です。
このような奴隷道徳の自己欺瞞に陥っている人たちとしてはいわゆる自称「弱者男性」、共産主義者、陰謀論者、カルト教団の信者などなどといった人たちが当てはまるでしょう。ニーチェはキリスト教に失望したという個人的な体験からキリスト教のみを執拗に攻撃していますが、個人的には信じるべきものがない平均的な一般大衆と比べキリスト教を本気で実践している人の方がマシとさえ考えています。

しかし、ニーチェの貴族道徳に従うなら弱者がどうしようもなく貧しいのを強者は全く気にもかけず彼らの自己責任にできてしまうということになりますね。イーロン=マスクやホリエモンのようなリバタリアン思想家が舌舐めズリ回して喜びそうな思想だなぁ(笑

奴隷道徳が人々に劣等感を植え付けるというのは「なるほど!」と理解できましたが、あくまで中庸が大事かなぁ〜と思いました。
どうせなら「オレは富も権力もある強者だが、弱者に施しもするぜ!」っていう強者と弱者を合わせたみたいな人間になりゃ良いんじゃないか(笑
ちょうどニーチェも自身の信奉者になることではなく、「私から去り、ツァラトゥストラに反抗せよ!」と読者に勧めてますしね。

強者の倫理=能動的ニヒリズム

ニーチェによると彼自身を含めた(笑)強者はキリスト教の衰退・奴隷道徳の欺瞞にとっくに気づいているのであって、それゆえ精神的衰退や自己欺瞞を嘆いて悲しみに浸る「受動的ニヒリズム」を脱し精神の高揚を目指す「能動的ニヒリズム」を実践している、とのことです。
ニーチェが古典文献学や音楽に没頭したのも、ジェフ=ベゾスやイーロン=マスクのようなバカな金持ちがやたら宇宙に行きたがるのも、弱者に塗れた社会をとっくに見放していて純粋美の世界や火星だの木星だのに価値を感じるようになったという能動的ニヒリズムの現れと言えるでしょう。

受動的ニヒリズムの中でも最も低俗な弱者の生き方として、ニーチェは「デカダン」をもあげています。これは自己破滅的な酒やタバコ、ラブレスセックス、冷笑とひがみに浸る反社会的な生き方を指しています。アル中やヤニカス、ドルオタ、萌え系オタク、パパ活おじさん、ひろゆき信者、「アンチ〇〇」と自称している人なんかが当てはまりそうですね。
私自身ゲームオタク・萌え系オタクというデカダンの資質を持っているのであまり偉そうにはできませんが(笑

私が個人的に受動的ニヒリズムに陥った例としては、この国がタテマエとして掲げている「ジユウとミンシュシュギ」があります。この自由と民主主義たるや結局は自公政権と官僚の独裁であり(最近は少数与党となったことで趨勢が変わりましたが)、私がホントに望んでいるような自由だのなんだのとやらが日本政治から実感できたことは一度もありません。
「ふざけんな〜!ジユウとミンシュシュギなんて自己欺瞞じゃね〜か!!」という受動的ニヒリズムに陥った私は、今では「しかたがねえ。一人でも多くの国民に金持ちに対する憎悪を植え付けてやるぜ!」という能動的ニヒリズムに燃えています(笑
詳しくは私のRedditを見に来てください。

https://www.reddit.com/u/NymnWales/s/ewmWXZUdqC

自分自身の「力への意志」=超人の生き方

このような精神的衰退や自己欺瞞を乗り越えたニヒリズムのソムリエ(笑)がするべきことは自分や世界には意味がないということを自覚した上で、自身の内面から湧き上がる「力への意志」に従うことだと言います。
「やりたいことは?」と自身に問いかけて真っ先に思い浮かぶことが古典文献学ならバーゼール大学の助教授になればいいし、宇宙に行きたいと思えばあの手この手でカネを集めてロケットを作ればいい、兵庫県知事の座にみっともなくしがみつきたいと思ったら実際そうすればいいということらしいです。このようなやりたいと思ったことを有言実行する人こそが精神的衰退や自己欺瞞を乗り越えた「誠実で善い生き方」なのだとニーチェは考えるようです。
正直この考えには「元も子もねぇ〜のな」と思って呆れました(笑

このような力への意志に従いやりたいことだけをやることを「誠実さ」、誠実さに基づいたニヒリズムのソムリエの生き方をニーチェは「徹底的ニヒリズム」と呼んでいます。
このような逆転された意味の誠実さはローマ貴族が振り翳していた「優れた血筋、知能、判断力、体力、美しさ、富、権力」を是とする思想に通徹しているというのがニーチェの考えです。
このような誠実さと貴族道徳を善しとする考えから、ニーチェは「エゴイズムは正しい、ただし強く優れた者・誠実な者のみ!」とさえ言います。こんな感じで、徹底的ニヒリズムがもたらす精神的・肉体的な苦痛や責務に耐える資質を持った選ばれし人間が「超人」ということらしいです。こんなの耐えられる人、現代人にいるのかな(笑

感想

ニーチェから学べることは貴族道徳と誠実さ、ニヒリズム・ソムリエの生き方などなど複数ありましたが、一方極めて客観性を欠いた性差別的・民族差別的なことも言ってるので鵜呑みにはできないな〜と思いました。「奴隷道徳〜!」と言われればそれまでですが、それが嘘偽りない私自身の「力への意志」でもあるのでこの主観と感情は大切にしようと思ってます。

何より「永劫回帰」とかいう、宇宙は熱的死を起こしていずれ何も残らなくなると分かりきっている現代では信じるのも馬鹿馬鹿しいことをニーチェは言っているんで、そこまで彼のいうことは真実を言い当ててはいないなあっていう。
こんな狂ったことばっかり言ってるドイツのおっさんがここまで過大評価されてんのはなんでなんだろう、とも思いました。疑問に思っていた「弱者の境遇から抜け出すヒント」に関しては有益な情報が得られたんで、まあ良い読書体験になりました。
次はニーチェとは対極的なガンジー・キング烈士の非暴力不服従について学ぶ予定です。

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