饒舌体を書いてみタイ(まあ要するによくしゃべる文章ってわけだ)。
わたしはときどき、世界中の物書きという物書きは、いろんな本から文体を真似て書いているんじゃないかと思うことがある(この書き出しでわたしがこの記事の文体をどの小説に影響されて書いているのか、わかった人がいたらその人は読書家だと思う)。いくら筆名を変えて書き分けたからって書いているのは一人の人間なのだから、まったく別の文体の文章を自力で書くなんてよほどの文豪がなせるものだし(そう言う意味で漱石先生はすごいわけだ)、もし文豪じゃないけれど真似をせずに書き分けられている、なんて人がいたらそれはきっと何か降りてきているか憑依されているのだろうと思う(それはそれですごいわけだけど)。
それでわたしはというとまぁこの前書いた「車掌「次の駅でキャラ路線をお乗り換えになれます」」の記事が面白いだなんて友だち(その子はとっても良い子でSRSの部長もこなしているんだ)に言ってもらえたもんだから(身内びいきもあるのはもちろんわかっているし、その子の優しさは国宝級だからその優しさを頂いたんだろうけど)やっぱり純粋に嬉しいわけで次の投稿もちょっと頑張ってみようかな、なんて張り切ってしまうわけだ(わたしは褒められて伸びるタイプなほうだからね)。
ユーモアな文章を書くって決めたは良いものの、じゃあその肝心なユーモアな内容がぱっと思いつかない(わけでもないけどそのまま小説が一本書きあがってしまいそうだったし、それならいっそ筆名のほうに投稿したいとか思っちゃうわけだ)からこっちのアカウントで何を書こう、とまた頭をひねってついでに首もひねってストレートネック防止をしてみたりみなかったり。
そんなこんなもあって(いつも思うけど、そんなこんなもあってって言葉はなんだか便利なようで大雑把な言葉だよね)ふだんならこういうよくしゃべる文体、饒舌な文体(恥ずかしながらわたしはとある小説を読むまでこういう文体にほとんど触れてこなかったから、はじめは読むのに戸惑ったなんて大きい声じゃ言えないんだ)でなにか書いてみるのも面白いんじゃないかなって急に思いついてこの記事を書いているんだ。
いざ書いてみるとやっぱり難しいもので、その難しさもさることながらさらに物語を展開して書き綴っていくのはさすが芥川賞作家と脱帽するばかりである(その文体を真似ようとしているわたしはかなり生意気なものだ)。
そもそも饒舌体ってどんな作家がいるのかなと軽く調べてみたらあの太宰治が例にあがっていて、今読んでいる小説は太宰治の文体とも違うけれど饒舌体にもいろいろあるのねなんて日本文学を勉強している身としては不勉強にもほどがある感想を抱いてしまった(こんど論文調べようと思ったのは言うまでもない)。
ここまで書いてきてふと思ったのが、この内容も正直、筆名のアカウントでエッセイとして投稿してもいいのでは? なんてこの前の投稿と同じような締まりのない流れになり始めている(もうここまでくると締まりのない文章を書いている人って認知されても否定できそうにない)。締まりがないけれどこの記事はもう投稿する気でいま1272文字まで書いてしまっているからそのまま公開してしまおうと思う。
わたしがどの小説に影響されてこの文章を書いていたか気になる人がいたら(いるのかわからないけど)コメント欄かなんかで聞いてくれたら答えを明かすかもしれない(かもしれないと言ったのはわたしは猫みたいなものだから気まぐれをおこして答えないかもしれないからだ)。
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