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『共鳴する部品表 BOMが起こす組織再生ドラマ 第十章』

第十章:試作プロジェクトの修羅場

 東都精密工業はEV部品の量産化を巡って大きな決断を迫られていた。社長の黒岩による大規模投資プランは、保守派役員の猛反対に直面し、社内にも動揺が広がっている。下請け工場の一部は離反の動きを見せ、競合ベンチャー企業は先んじてITを駆使した量産体制を整えつつある──まさに、四面楚歌の状態だった。

 しかし、黒岩はここで立ち止まるつもりはなかった。コンサルタントの千葉の助力を得て、緻密なロードマップとリスク管理策をまとめあげ、役員会や金融機関に対しての説得資料を着々と準備している。一方で、現場レベルでは「EV用試作プロジェクトの拡張版」とも言える最終検証に着手せざるを得なくなっていた。量産を見据えた大規模なパイロット試作を実施し、各工程の問題点を炙り出す必要がある──しかし人手不足や下請け連携不備が相まって、既に綱渡りの状態である。
 
 ──かくして、東都精密工業の運命を左右する「試作プロジェクトの修羅場」が幕を開けようとしていた。
 まず、社内では若手取締役の佐野を中心にプロジェクトチームを再編成した。もともと試作品の開発を行っていたメンバーに加え、工場長の松尾、購買・倉庫管理の林や田代、生産管理の永井、設計部の横井・橋本、IT担当の井上、そして設計部長の薮下も全面協力を表明している。

「目的は、EV量産ラインを想定したプロトタイプ運用を短期間で回してみることです。各部門の連携がどこまで有効か、BOMは大規模な変更に耐えられるか、サプライヤーへの情報共有は機能するか──すべて検証しなければなりません」佐野が集まったメンバーに語りかける。誰もがその“重み”に息をのむ。もしこの検証段階で失敗が露呈すれば、大規模投資プランそのものが白紙になり、会社の未来は暗転しかねない。

 横井が意気込みを語る。
「ここまで来たらやるしかない。幸い、設計図面はすでにBOMと連動し、部品構成情報もある程度整備されつつある。あとは、実際に量産を想定した各工程で、どこまでスムーズに流せるか試してみましょう」
 すると、工場長の松尾が笑顔を浮かべる。
「若いのが頑張ってる姿を見ると、俺も燃えてくるよ。現場のベテランたちにも協力してもらい、これまで以上に“アナログとデジタル”を融合させよう。職人芸だって、まだまだ捨てたもんじゃないぞ」

 そんな前向きな空気の中、チームは激務へと突入していく。ところが、最初の難関はやはり下請けサプライヤーとの連携だった。BOM導入を受け入れてくれる工場もあれば、いまだにFAXや電話を主体に作業を続けている工場もある。試作プロジェクトが拡張されれば、加工内容や納期の変更頻度も高まるため、それをリアルタイムで共有しないと混乱が生じる。

「こっちは前回の仕様で材料を準備してますよ。変わったんならちゃんと連絡してください!」
「BOMポータル? いやあ、ログインしてみたけど、よくわからなくて…」

 購買担当の林が必死に説明し、IT担当の井上が駆けつけてマニュアルを手渡し、使い方をレクチャーする。
 ベテラン社長の中には「いやあ、もう年寄りには難しい」とこぼす者もいるが、EV部品の試作に参加して利益を得たい気持ちもあるため、何とか頑張ってくれている工場も多い。

 一方、完全に離反してしまった下請け企業もあった。
「やっぱりウチには合わないよ、すまないね。もう今後の仕事は勘弁してもらう」そう言って契約を打ち切ってしまう工場が数社出たとき、永井や林は茫然とした。足りないリソースは新規サプライヤーを探す必要があるが、時間もコストもかかる。

「これが“変革”の痛みなんだろうな……」永井は唇を噛む。そうは言っても、量産フェーズに進むために外せない試練であることは誰もが理解している。

 社内でも問題が起きる。設計部は、エレクトロモビリティ社から細かな仕様変更や追加要望が次々と届くせいで、図面改訂がまるで雪だるま式に増えていくのだ。横井や橋本がBOMへ更新情報を登録し、生産管理や購買へ展開しようとするが、あまりの頻度に追いつかない場面が出始める。

「橋本、ここさっき修正したところだろ? なんでまた変更入ってるんだ?」
「仕方ないですよ、先方が急に冷却効率の見直しを求めてきたんです。部長はなにか聞いていないんですか?」
「……いや、まだ話を聞いてない」と歯切れ悪く薮下が答える。
 イライラを募らせた橋本が思わず声を荒げる。
「部長、ちゃんと情報を把握してください! 設計部が一丸となってBOMを更新しないと、混乱しますよ!」
「わかってる! だが、こちらだって同時進行で他の改訂作業や量産準備を進めてるんだ。私一人がすべてを完璧に管理できるわけじゃないんだよ……」薮下が珍しく弱音を漏らす。
 部長としての責任感と限られたリソースの間で板挟みになっているのだ。長年、属人的なやり方で回してきた部門が、短期間でデジタル化・大量改訂に対応するのは容易ではない。双方が苛立ちをぶつけ合い、小さな衝突が繰り返される。

 そうした逼迫した状況は、どうしてもヒューマンエラーを招きやすい。ある日、工場の組立ラインで「旧仕様の部品が届いている」というトラブルが発生した。調べてみると、設計部がBOMを更新していたのだが、購買担当が古い改訂番号のまま発注をかけてしまっていたのだ。しかも、下請け工場は新しいBOMポータルを使わず、FAXで受けた情報を優先してしまった。

「すみません、僕の方で更新情報を見落としてました……」
「ええっ、どうするんですか!? 納期はあと一週間しかないのに!」

 ラインリーダーが怒鳴り、購買の林は青ざめる。修正には追加コストがかかり、納期の遅れにも直結しかねない。これが試作段階であればまだ取り返しがつくだろうが、量産フェーズでこんな混乱が起きれば大惨事だ。現場の誰もが不安を口にする。「このままじゃ“修羅場”どころか全滅だぞ……」

 バタバタと混乱が続く中、プロジェクトリーダーの佐野は工場や設計部、購買部を駆け回り、火消し役に追われていた。BOMの運用ルールを再確認し、改訂通知が届いたら誰がどの段階で確認を行うのかをホワイトボードに書き出して説明する。同時に、下請け工場とのビデオ会議を設定し、井上にオンラインデモをしてもらいながらBOMポータルへのアクセス方法を一つひとつ教える。

 佐野自身も疲労は限界に近かったが、そんなそぶりは見せなかった。むしろ、全社を巻き込んで突き進む“トップダウン”のスピード感こそが、いま必要だと分かっていたからだ。
「ちょっとでも立ち止まれば、プロジェクトは一気に崩壊する──なら、走り続けるしかない!」

 その佐野の姿を見て、若手社員たちは勇気づけられる。一方で、ベテラン社員は「勢いだけで大丈夫か?」と不安を抱きつつも、なんとか付いていこうと努力する。かつての閉塞感とは違い、混乱の中にも「変わりたい」という空気が存在しているのだ。
 
 そんな修羅場のさなか、設計部の中堅・橋本はまだ転職オファーを抱え続けていた。ベンチャー企業からの最終的な返答期限が迫り、幾度となく「そちらの状況はどうですか?」と連絡が入る。激務の合間を縫って、橋本は自宅で深夜まで悩む日々が続く。会社は混乱の極みにあるが、それでも変わろうとしている熱気を感じる。ここで辞めたら、後で後悔しないだろうか──しかし一方で、大規模投資プランが頓挫して会社が危機に陥った場合、自分の将来はどうなるのか。

「薮下部長があれだけ協力的になるなんて、数ヶ月前には想像もできなかった。皆が本当に必死でBOMを使いこなそうとしてる。このまま頑張れば、面白い仕事がたくさんできそうだ……」橋本は湧き上がる思いを抑えきれない。一方で、「もし失敗したら?」というリスクは現実問題として消えない。
 ──決断は、もうすぐ下さなければならない。
 
 混乱を極める試作プロジェクトの現状を見て、コンサルタントの千葉は社長の黒岩にこう提案した。
「社内のワークフローを見ていると、まだ“人間任せ”の部分が多いですね。BOMのシステムをもっと自動化・可視化できるように、追加開発を検討してはどうでしょう。改訂漏れや通知漏れが起きない仕掛けを強化するんです」
 黒岩は顔をしかめる。
「それはわかりますが、追加開発にもお金がかかる。いまの投資計画が通るかどうかも怪しい状況で、さらに出費を増やすなんて……」
「しかし、いま“修羅場”を少しでも軽くしないと、量産体制なんて夢のまた夢ですよ。工場や下請けが悲鳴を上げる前に、システム面でサポートするのが急務です」
「……わかった。もうここまで来たら、やるしかないか」

 黒岩は、役員会で叩かれるのを覚悟のうえで小規模追加投資を承認することに決めた。井上らIT担当が中心となり、BOMと連動したアラート機能や自動メール送信、下請け工場が簡単に使えるWebUIの改善などを急ピッチで進める。こうしたギリギリの判断を積み重ねながら、会社は一歩ずつ前に進むしかないのだ。
 
 やがて、怒涛のような試作スケジュールが最終段階に差し掛かる。エレクトロモビリティ社からは「○日までに所定の検証結果を提出してほしい」と連絡があり、その締め切りが目前に迫っていた。検証結果とは、試作部品の性能評価・加工コスト・歩留まりなど、量産のベースになる重要なデータだ。これを無事にまとめ上げ、提示できれば、エレクトロモビリティ社との契約がさらに一歩進む可能性が高い。

 工場ラインでは、ベテラン職人たちと若手が協力して加工条件を詰め、BOMで指定された部品をほぼトラブルなく集められるようになってきた。購買と倉庫管理もリアルタイムで在庫を確認できる仕組みが整い、以前のようなダブル発注・旧仕様混在のトラブルは劇的に減少している。
 たしかに地獄のような忙しさだが、「BOMがなければもっと悲惨だった」という意見が大勢を占めるようになっていた。

「何だかんだ言って、システムが安定してきたね」 そうつぶやいたのは生産管理の永井。
「後は大きなトラブルが起きずに、この試作を完遂できれば……」

 しかし、最終締切の直前になってとある問題が浮上する。エレクトロモビリティ社から「海外製の部材との互換性を検討してほしい」という追加要望が舞い込んだのだ。部材の輸入に際して関税や納期が読めないため、最悪の場合、国内調達を増やす必要がある──その場合、東都精密工業が担当できる範囲が拡大する可能性もあるが、図面と構成の大幅な見直しが避けられない。
「これ、すぐには対応できないよ。もう締め切り前なのに……」
「でも、ここで“No”と言えば競合他社に取られるかもしれない。海外部材絡みの話だと、あっちのベンチャー企業が先に動きそうだし」
 試作プロジェクトチームは再び大混乱に陥る。時間が足りない。誰もが青い顔で業務に追われる。だが、その苦境の中に逆転のチャンスが潜んでいるのも事実だ。もしこの要望に応えられれば、社内での評価もエレクトロモビリティ社の信頼も高まり、大型受注に一気に近づくはずだ。

 佐野はメンバーを鼓舞する。
「確かに苦しいけど、BOMをフル活用しよう。設計が変更点をまとめ、生産管理と購買が必要な材料や工程をすぐに洗い出せば、不可能じゃないはずだ。今こそ、やってやろうじゃないか!」
 その言葉に、橋本も意を決するように頷く。
「やりましょう。もう一度、図面を徹底的に見直してBOMを更新します。大丈夫、先月よりも運用はだいぶ熟れてきましたから」

 締切前夜、社内のあらゆる部署で明かりが消えず、社員たちがデスクや工場のラインに張り付いていた。試作部品の最終加工、追加要望への対応、BOM更新、ドキュメント整備……。外は深夜の静寂に包まれているが、東都精密工業の建物だけが不気味な熱気に満ちている。

 橋本はCAD画面を凝視しながら、薮下ノートのPDFを参照し、寸法の公差や加工上の注意点をチェックする。横井が横で補足し、適宜BOMへ情報を反映する。購買の林と倉庫管理の田代は、まだ稼働中の下請け工場へ緊急連絡を入れ、追加の納期交渉と材料手配の最終確認を行う。生産管理の永井は、新しい工程表をBOMから出力し、工場のラインリーダーたちへ一斉に通知する。佐野は全体を監督し、チャットツールや社内メールで飛び交う質問に答え、時には現場に駆けつける。千葉は後方支援として助言を送りつつ、社長の黒岩に経過報告を伝える。

 まさに“修羅場”と言うにふさわしい光景であった。だが、これまでの停滞した会社の姿を知る者からすれば、この悲壮感さえも“生きている”と感じられる。かつての東都精密工業にあった諦観は、今はない。代わりに、泥臭くとも必死に前を向く意志がある。
 
 翌朝、空が白み始める頃、試作プロジェクトチームはなんとか“最終案”をまとめ上げた。エレクトロモビリティ社からの追加要望にも対応したデータと、実際に試作品の一部を加工・検証した結果をレポートにまとめ、BOMから出力した詳細な部品構成表を添付する。工場長の松尾は、徹夜で働いていたベテラン職人たちにコーヒーを配り、ねぎらいの言葉をかける。薮下は設計チームのメンバーと無言でハイタッチを交わし、橋本は椅子にへたり込みながら笑顔を見せる。
「なんとか……やり切った……」

 佐野は目を充血させながら、すぐにエレクトロモビリティ社の担当者へ書類とデータを送信する。会社の新たな未来を賭けた一撃。あとは先方の評価を待つのみだ。外の空は、徹夜明けにしては清々しいほどの朝焼けに染まっている。長い長い試作の夜が終わる瞬間。しかし、本当の戦いはまだこれからだ。量産の本格受注が決まれば、より大きな生産能力と安定したサプライチェーンを構築しなければならない。それでも、この修羅場を乗り越えた事実は、社員たちの心に確かな“自信”として刻み込まれた。


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滝崎 浩正(たっきー)
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