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『共鳴する部品表 BOMが起こす組織再生ドラマ 第七章』

第七章:企業再生への光

 ギリギリのスケジュールの中で、新型EV用モーター部品の試作品をエレクトロモビリティ社に納品してからおよそ一週間。東都精密工業の社内は、その評価結果を待つ緊張感と同時に、BOM導入で手応えを得たという高揚感が入り混じった空気に包まれていた。ベンチャー企業など競合も多く、まだ受注を確約されたわけではない。だが、ここ最近の社内の一体感は、かつての停滞を思えば信じがたいほどに充実している。

 若手取締役・佐野は毎朝、プロジェクトメンバーに声をかける。
「今回の件、結果がどうであろうと、社内改革はもう後戻りできない。BOMを軸にした情報共有こそが、これからのうちの武器になる。みんな、引き続き気を引き締めていこう」
 
 エレクトロモビリティ社からの連絡はまだないが、同社担当者とは毎日のようにメールや電話で細かな仕様確認をやり取りしている。その度に、設計部では必要に応じてBOMを更新し、工場・購買・倉庫など各部署に修正情報が瞬時に伝わる仕組みが回り始めていた。同時に、営業部の若手社員たちも驚きを禁じ得ない。
「先方から“もう少しここを調整してほしい”と連絡が入った時、今までは『設計に確認してから回答します』で数日かかっていたのに、今回は即日回答できるようになったんです。BOMの威力ってすごいですよね」
 こうしたポジティブな声が広がるたびに、社内にはほのかな希望が芽吹いていく。

 試作品づくりに没頭していた設計部の中堅・橋本は、この数日間、あえて転職話を頭から遠ざけていた。ベンチャー企業からのオファーは相変わらず魅力的だが、今の会社が想像以上に変わり始めているのを肌で感じる。
「こんな短期間で、図面の改訂情報が全員に伝わる仕組みができるなんて……。正直、昔は『ここにいてもスキルが伸びない』と感じてたけど、今はどんどん新しい知見を得られてる」橋本は休憩室でそうつぶやき、コーヒーを一口飲む。すると、同僚の横井が笑いかける。
「まあ、実際に使ってみると、BOMって便利だよね。僕も昔は“紙の図面でやったほうが早い”って思ってたけど、今はCADと連動してリアルタイムで登録・修正できるのが当たり前になりつつある」

 一方で、設計部長の薮下が少しずつ変わり始めた姿は、橋本にとって大きな驚きだった。
「この前なんて、部長が自分から“これまでの経験を一部BOMに載せてみてはどうだ?”って提案してくれたんですよ。たぶん“薮下ノート”の一部を電子化する気なんだと思います」横井の言葉に、橋本は思わず目を見張る。
「まさか、あのノートを……? 昔は絶対に開示しないって言ってたのに」
「うん。部長も腹をくくったのかもしれない。それに、もしEV部品の量産化が始まれば、設計のノウハウがさらに重要になるからね。みんなで共有すれば、よりスピーディーに問題を解決できるだろうし」
 橋本は心のどこかで、次の大きな勝負どころを感じていた。
「もし受注が取れれば、会社は本当に生まれ変わる」──その期待が彼を引き留めているのも、また事実だった。
 
 ある金曜日の午後、営業部宛に一本の電話が入る。差出人はエレクトロモビリティ社の担当者だった。
「そちらの試作品について、ぜひ来週、弊社オフィスで詳細な打ち合わせがしたいのですが……お時間よろしいでしょうか?」営業マンの一人は慌てて佐野のもとに飛んでくる。
「佐野さん、エレクトロモビリティ社が直接打ち合わせを求めてます! 具体的な評価結果や、量産の可能性について話すかもしれません」
「わかった、すぐアポを取りましょう。うちからは誰を連れていくべきかな……設計部も生産管理も、BOMでやり取りしてきた人たちが同席したほうがいいな」

 こうして、来週月曜日に「試作品の評価フィードバック+量産検討」の打ち合わせがセットされる。社長の黒岩に報告すると、彼は目を輝かせてうなずいた。
「それは朗報だ。もし量産に移るなら、さらに厳しい納期とコスト管理が求められるだろう。準備を怠るなよ、佐野君」
「もちろんです。薮下部長や松尾工場長、永井や横井、そして購買やIT担当も総動員で臨みます」

 月曜の打ち合わせはEV部品の受注を左右する重大な局面になるだろう。社内の期待も高まる中、プロジェクトメンバーたちの週末は準備作業に追われていく。

 その準備の最中、設計部のオフィスでは薮下が自分の書棚をじっと見つめていた。そこには何冊もの黒い背表紙のノートが並ぶ。どのノートも背幅が膨れ上がり、付箋やメモが無数に貼られている。──薮下ノート。そこには、部品や材質、加工法やトラブルシュートの数々、取引先のクセや要望まで、年月をかけて書き込まれた“現場の叡智”が詰まっている。
「これを、若い連中にすべて公開する……そうなれば、設計が大きく進化するかもしれんな」そう独り言を漏らしながら、薮下はノートを手に取ると、中をパラパラめくった。自分の汚い字でびっしり書かれたトラブル事例、その都度の対策、設計時の勘どころ……。ふと、先日の橋本の姿が脳裏をよぎる。あれほど優秀なエンジニアが転職を迷うほど、この会社は遅れていたのか、と痛感した場面だ。それでも、今は少し違う。BOMを活用し、みんなが情報を共有することで、従来の弱点を克服しつつあるではないか。ならば自分も、一歩踏み出すべきときかもしれない。
「よし、決めた。出し惜しみはやめだ……」

 その夜、薮下はノートの一部をスキャンし、設計部専用のフォルダにPDFとしてアップロードし始めた。ファイル名をわかりやすく整理し、目次を付け、さらにBOMとの関連が深い項目はリスト化して紐づける。
 一種の“デジタル薮下ノート”とも言える共有資料を形にする作業は、予想以上に時間がかかる。だが、薮下の顔には不思議なほどのやる気が宿っていた。
 
 週が明けた月曜日の朝、佐野や薮下、横井、そして生産管理の永井、工場長の松尾などが揃い、東京郊外にあるエレクトロモビリティ社のオフィスビルを訪れた。応接室に通されると、現れたのは調達部門のディレクターや技術部門のエンジニア数名だった。外国人エンジニアもおり、英語が飛び交う。佐野は通訳が必要かと気を揉んでいたが、彼らのほうで日本語の堪能なスタッフを伴ってくれたらしい。
「まず、今回の試作品の評価ですが……総じて合格点です。精度も申し分ありませんし、我々が要望した追加加工にも、短期間で柔軟に対応いただきました。非常に高い技術力を感じましたよ」ディレクターがそう述べると、一同は安堵の息をつく。
「ありがとうございます。短いスケジュールでしたが、当社のBOMを活用した社内連携が奏功したと思います」佐野が笑顔で応じると、ディレクターはうなずきながら続ける。
「ただ、やはり量産段階では、さらなるコストダウンと安定供給が必須条件になります。とくに当社のEVモーターは世界各国で生産されるため、サプライチェーン全体を最適化できるかがポイントなのです」

 そこで薮下が身を乗り出す。「承知しております。当社では現在、BOMを全社的に導入し、サプライヤーとも連携できる仕組みを整えつつあります。短納期の変更にも対応可能な柔軟性が最大の強みと自負しています。ぜひ我々にお任せください」これは、かつての薮下からは考えられないほど積極的な発言だった。横井や永井が驚いたように薮下を振り返ると、彼はどこか頼もしげな表情で続ける。
「実は私自身、長年培ってきたノウハウを社内で共有し、さらにBOMに反映するべく準備を進めています。量産段階でも品質とコストを両立できる体制を作ることが、当社の使命だと思っています」

 その姿勢に、ディレクターやエンジニアたちも好感を抱いたようだった。
「素晴らしい。その点、私たちの方でも新たな要件がいくつか出てきますが、継続的に協議しながら進めていきましょう」こうして会議はおおむね好意的な雰囲気で進み、双方が量産フェーズに向けた課題を洗い出すためのワーキンググループを立ち上げることに合意する。
 
 打ち合わせを終え、東都精密工業の面々は手応えを感じながら本社に戻る。早速、経営陣やプロジェクトチームが集まり、今後の方針を練る会議が開かれた。
「エレクトロモビリティ社は、世界展開を見据えてサプライチェーン管理を極めて重視している。もし正式に量産契約を結んだら、当社がその一角を担うことになるんだ」佐野が熱く語る。
「そのためには、社外サプライヤーとのBOM連携も必要になる。下請けや外注先に、設計変更や在庫状況をリアルタイムで共有できる仕組みを整えないと、納期の遅延があっという間に発生してしまう」

 IT担当の井上は、さらに意欲的な案を出す。
「実際には、サプライヤーに対してアクセス権を限定した“BOMポータル”を提供するなどの仕組みづくりが考えられます。安全保障や企業秘密の観点もあるので、セキュリティはしっかり設計する必要がありますが……」
「そこがポイントだろうね。大塚さんたち保守派役員は、社外への情報開示をどう思うか……?」永井が心配げにつぶやくと、佐野は肩をすくめる。
「大塚取締役も、最近は黙認している印象がある。あれだけ否定的だったBOM導入も、ここまで成果が出ると否定はしにくいからね。ただ、大きな投資が必要な場合はまた揉める可能性はある」

 社長の黒岩は、力強い口調で言い放つ。
「この際、多少の投資は惜しまない方針にしよう。EV部品の量産化を勝ち取れれば、会社の将来像が大きく広がる。徹底して改革を進めようじゃないか」
 この言葉を聞いて、プロジェクトメンバーは歓喜に近い感情を覚えた。ついに社長が全面的にBOMを“攻めの武器”として捉えてくれたのだ。

 一方、良い話ばかりではない。担当営業マンからの情報によれば、ベンチャー企業のA社がエレクトロモビリティ社から高い評価を得ているという噂が飛び込んできた。
「先方は複数サプライヤーを組み合わせて部品調達することを検討しているらしいんです。もしかすると、モーターの一部はうち、別の部品はA社、みたいな分業体制になるかもしれない」と。これを聞いた佐野は苦い顔をする。
「競合作業は続くわけか……。まあ、全部まとめて一社が請け負うというパターンは少ないだろうから、想定の範囲内ではあるけど」しかし、本格的に量産化へ移行するためには、より大きな受注量を確保した方が社内の開発投資もしやすい。小さな案件だけ割り当てられても、思うようにコストを下げられない可能性もある。
「ここからが正念場だな。向こう数ヶ月で、いかに速やかに量産体制を提示できるかが勝負になるだろう。BOMの全社展開を加速させよう」

 同じ頃、設計部では“薮下ノート”の電子化データが一部公開され、部員たちが閲覧できるようになっていた。
「うわ、これすごい……いつの案件だったかも書いてあるし、こんな設計トラブルがあって、こう対処したとか、めちゃくちゃ参考になる」
「寸法の許容範囲について、ただの数値だけじゃなくて、加工現場での経験則まで書かれてる……」横井や橋本、若手社員らが興奮気味にページをめくる。部長の薮下は照れ隠しに咳払いしながら言う。
「まあ、これがすべて正解ってわけじゃない。俺の経験上、こうだったというだけの話だ。だが、おまえらが活用できるならうれしい限りだよ」

 このノートの存在は、設計部内の文化を変える大きな一歩だった。個人が抱えていたノウハウを共有し、BOMに反映していくことで、組織としての戦闘力が向上する。その結果、さらに短いスパンで設計変更にも対応できるようになる。
「正直言って、部長にはびっくりしました。こういうのを出し惜しみしないなんて」横井が笑顔で言うと、薮下はわずかに頬を緩める。
「若いうちは、どんどん新しいことを吸収しろ。俺も今さらだが、デジタル化ってのに足を踏み入れたよ。もう一度勝負してみたい気分だ」
 
 その週の金曜日、社内では小さな祝賀ムードが漂っていた。EV部品試作の評価が好感触だったこともあり、経理部からは「もし量産化となれば売上規模が大幅にアップする見込み」とポジティブな試算が出ている。また、BOM導入の進捗レポートが全社メールで発信され、誰もが自分たちの会社にポジティブな変化が起きているのを実感していた。かつては“属人技”や“アナログ管理”に固執していた社内が、「データを共有し、問題を可視化する」組織へと移り変わりつつある。社員たちは口々に「前より仕事がしやすくなった」「同じ方向を向いて働いている気がする」と感想を述べ始めた。

 この雰囲気を見て、佐野はコンサルタントの千葉にこっそり話しかける。
「千葉さん、最初に来てもらったときは、正直ここまで変われると思ってなかったです。今は社長も乗り気だし、薮下部長もあの調子……。まだまだ課題は山積みでしょうが、確実に変化を感じます」
 千葉は微笑みながら応える。
「そうですね。BOM導入はあくまで“仕組みづくり”の第一歩にすぎませんが、その過程で社員の意識が変わることが何よりも大切です。この会社はまだ伸びしろが大きいですよ」


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滝崎 浩正(たっきー)
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