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ことばというのは、コミニケーションを円滑にするために生まれた媒介物とだと何処かで聞いたことがある。
お金が信頼を担保する媒介物として生まれ、ことばは円滑な相互理解をするために生まれたというのは使い古された常套句か。
初めに、ことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。
と、本として世界で1番か2番目に多く売れている聖なる書には書いてある。
もはや神であるらしい"ことば"をぼくらは道具のように呼ぶけれど。
ことばに踊らされているのは実はぼくらの方かもしれなくて。
手段であったお金が目的になった現代資本主義と同じくして、ことばもまたぼくら人間が手に負えないところまで一人歩きしてしまったようだ。
いつだって行きすぎた進化によって文明は崩壊してきた。
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◯同郷の友だちがヨコモ人になってた
「いやー、最近ジョインしたプロジェクトがあってさー、コンペティターのベストプラクティスもリサーチしていくとうちのコアコンピタンスってなんだろうって考えるよね。てか、そもそも結構ジャストアイディアだったんだけどさw そのうちキャズム超えるためにもう手は打っておかないといけないし。自社でこれまで積み上げてきたアセットもあるからそれをうまいこと使うために他事業部とカニバらないようコンセンサス取るのは大変だったわ〜。ちょーど彼女と別れたタイミングだったしさ〜」
上記は、先日久々に会った同郷出身の男の子に「最近調子はどうか?」と聞いた時に返ってきた内容を細心の注意を払ってがんばって言語化したものである。
ぼくの偏見かもしれない。
それでも、言わせてもらいたい。
東京という街はヨコモジとネズミが多すぎやしませんか。
地方から東京に出てきた者共は多少の理解と共感を示してくれるのではないかと期待させて欲しい。
東京というメルティングスポッツで働くぼくの周りではヨコモジが飛び交うことが多いのだが、何を言っているかさっぱりわからないことが多々。
聞いていると眠くなっちゃう時は多々多々。
何を隠そう、ぼくはヨコモジが苦手なのだ。
なので、「ばりだるい」が一発目の返答で来ると予測していた同郷の友人にいきなりヨコモジの嵐を浴びせられると慌てふためき倒して思考が停止してしまう。
「いや、わからんわからん。そんな早口なルー大◯みたいに捲し立てられても。どうしたどうした。いつからそんなヨコモジ使うようになったんや。もうちょっとわかるようにゆっくり話してくれ」
そう懇願すると、片方の口角だけをちょんとあげた澄まし顔で、
「え、何?あぁ、ごめんごめんw うちの取引先とかも外資の人多いしその影響かな。てか、もうグローバルってのがスタンダードで日常に英語も浸透してきてるわけじゃん?だから、お前も慣れろよw」
と、のたまわれた。
ふむ、なるほど。
知らぬ間にヨコモ人に成っていた彼からすると、ぼくは「え、何ヨコモジそんな使っちゃってんの?わろた」とか言っちゃってる変化に適合できない取り残され系人材に見えたのかもしれない。
彼にそういう風な態度を取らせてしまったぼく自身の内面を見つめてみると、確かに苦手だからと言って一方的にヨコモジワロタみたいな感じを醸すのもちょっとイケてないんじゃないかと言う天使が現れた。
人は自分が極端に得意なことの場合はひけらかすという行為によって、
自分ができないことがやたらめったら得意な人がいた場合は「やりすぎだろwガチ勢」とか言って馬鹿して、マウントを取りがちだ。
反省内省。
加えて、グローバル化がぼくらが普段何気なく使っている日本語という言語に影響をもたらした結果がヨコモジだというヨコモ人の彼の考察は少し面白いなと思った。
もしかしたら、彼らは新しい人類なのではないかという見方もできる。ルー◯柴も進化の最先端を独走していた新人類なのかもしれぬ。
そして、ぼくはそんな進化の流れに乗ることができない「最近の若い人の言葉はわからんわからん」が口癖の鈍足な老害に成り下がったのではないかという危機意識すら抱かされた。
ヨコモジを使っている最中に彼が謎のドヤ顔をしているように見えてしまっていたのもぼくの濁った目が悪いのだ。
それに、アレはドヤ顔ではない可能性もある。
「俺は人類の新しい進化の最終地点にいるんだぜ、ふふん」という誇り、矜持なんだ。きっとそうだ。そうに違いない。くそお、なんてことだ。
と思って自分の不甲斐なさに膝から崩れ落ちそうになったけど、そもそも英語も現代社会も赤点ばっかだったやつにグローバル化がどうのとか言われたくなくね?と悪魔が微笑みかけてくれたおかげでスクッと立ち上がることができた。
彼女とも別れたらしいし。ふふん。
◯新人類ヨコモ人を掘り下げる
グローバル化なんていう大層なことを語れるほどぼくは国際事情もとい教養に明るくない。むしろ暗い。真っ暗だ。一寸先は闇。
それでも、一応ぼくなりの解釈を述べさせていただくと、
モノや文化、情報、お金、人といったものが世界中に流通して交わることで、世界の経済や社会が一体化することで国という概念が薄れて地球という1つの共同体としてのつながりを取り戻していくこと
だと思っている。
それっぽいでしょ。ふふん。
同郷の友人の意見は、グローバル化という地球規模の一体化の過程で英語と日本語が交わりつつあるのが今の潮流であり。
その流れが、ビジネス界隈で新しいことばっちゅーか言語っちゅーかなんちゅーかビジネス用語っちゅーかわからんけど生んだものそれがすなわち
横文字
ヨコモジ
YOKOMOJI
だ。この使い手をヨコモ人とする。かっこかり。
日本語と英語のハイブリッドであるヨコモジを容易く操る彼らヨコモ人は、グローバル化というものに適応して進化を遂げた新しい人類と言っても過言ではないのかもしれない。
と、ぼくが恐れ慄くことになった先例があるのですこしばかりご紹介する。
実際に異なる言語同士が交わり共存し、国という集合体として独自の文化を築いた現存する島がある。
マルタ共和国という島国だ。
◯下手したらヨコモ人発祥の地としてのマルタ共和国
マルタ共和国という国をご存知でだろうか。
「ようわからんが、響きはなんか聞き覚えあるけど〜。なんか海綺麗そうやでな〜。地中海とから辺とちゃうんか。知らんけど」
的な印象を大体の人はお持ちなんじゃないか。
ぼくはそんなイメージでググった。んで、大体合ってた。
知らなかったのは、マルタ共和国ではマルタ語と英語の2つが盛んに使用されておりどちらも公用語として認定されているということ。
元から長く住んでいる人たちの間ではマルタ語と英語の2つの言語が"まぜこぜ"に使われているそうだ。
基本的に、話し言葉はマルタ語、書き言葉は英語らしいのだが、明確な区切りも特にないとのこと。
なんなら他にもふつーに「ボンジュール」とかフランス語の挨拶が頻繁に飛び交ったりもするし、イタリア語もかなり使われるらしい。
これらはのちにマルタ共和国となる国が長らくイタリアの統治下にあったことが背景としてある。
そして、イタリアの次はかの有名なナポレオン率いるフランスがマルタの国政、地方自治体制度、金融行政の改革、そして、貴族などの特権階級廃止、奴隷制度を廃止と解放、家族法の枠組みを作り、教育システムの改革も行った影響のようだ。
英語が広がったのは、勢いを失ったフランスがイギリスと講和条約を結んだのを機に、イギリスの統治下に入ったことが起因している。
ついでに面白かったのは、マルタ共和国の経済成長率はEU加盟国中でもトップクラスというデータだ。
海外資本を取り込むため、海外の投資家と起業家に対する税制上の優遇を積極的に行ったり、相続税、固定資産税、贈与税なども免除していたりしている。
その結果、BMWやベンツからファーウェイとかもマルタに進出しているっぽい。
人口40万人ちょっとの東京都23区の半分くらいの面積の島国にである。けっこうすごくね。
ともかく、いろんな国の統治下を渡り歩いたことで「マルタ語」「英語」「フランス語」「イタリア語」の"まぜこぜ"文化は生まれ、マルタ共和国は歴史を紡いできた。
既存の言語と新しい言語の"まぜこぜ"は、ヨコモジという現象として日本語と英語が"まぜこぜ"になってぼくの身にも絶賛降りかかってきている。
マルタ共和国民の歴史の中でヨコモジ的な現象に悩んだ人がいるかどうかはわからんが。
島国であったり、観光業に力を入れていたり、言語の"まぜこぜ"が起きていたりと日本とマルタにはいくつかの共通項があるので、日本の経済成長率向上のヒントはもしかしたらマルタ共和国にあるのかもしれない。
知らんけど。
◯ことばは何のためにあるか
世界に現存している言語の数は7099もあるんだって。
なぜこれほどたくさんの言語の数がこの世界に存在しているのかは定かではないし、だれも答えを持っていないんじゃないかと思うが、ヘブライ聖書の一つであるヨベル書にはこんな逸話がある。
バベルの塔
神はノアの息子たちに世界の各地を与え、そこに住むよう命じていた。しかし人々は、これら新技術を用いて天まで届く塔をつくり、シェムを高く上げ、人間が各地に散るのを免れようと考えた。神は降臨し、この塔を見て、「人間は言葉が同じなため、このようなことを始めた。人々の言語を乱し、通じない違う言葉を話させるようにしよう」と言った。このため、人間たちは混乱し、塔の建設をやめ、世界各地へ散らばっていった。
各地に散るのを防ぐためになんでそんな高い塔を作ろうと思ったのかはようわからんけど、とにかく当時の塔職人たちのせいで言語は7099もあるらしい。
話すことばが違うということのせいで、人は遥か昔はあったはずのつながりが断絶されたままである。ことば以外にも人との断絶を生む違いなんてものは溢れるほどあるのに。
では、ぼくらが境を超えてつながりを取り戻すためにことば以外に必要なのものはないのだろうか。
先日、月2回くらいで主催している積読打破という読書会でとても面白い光景を目にした。
初対面で年齢も一回り以上差があり性別も性格も感性も全てが全く重ならない2人がお互いのあまり作品への解釈の違いに「なんでそうなる!?」というツッコミ合いが止まらず、終始笑顔が咲いて止まなかったのだ。
価値観や感性の違いを面白がりながら仲良くできるってけっこう凄いことだと思う。それが初対面なら尚更。
側から見てると、
相手に自分のことを理解してもらうためにはどんなことばを届けようか、
相手を理解するためにはどんな問いを投げかけようかという心の交換を無意識に忙しなく行なっていたようだった。途中、互いの使用することばの定義の違いなどにも気づいたりして、それもまた面白がっていた。
気づけば二人の間に互いへの興味と違いへの配慮が形成されている感じも同時に見て取れた。
いい意味で忖度のない問いと妙に飾りっ気のない返答は、気づけば普段気づかないうちにまとっている鎧を脱がしていく。
自己のやわらかい部分を明かし合った二人が、ずっと無邪気に笑い合う姿は感慨深いものだった。
場をひらいたものとして、そんなつながりが生まれる瞬間を目にできることほど嬉しいものはない。
冒頭に出てきた、同郷の友人とぼくのやり取りとは歴然の差だ。
自分の考えが当たり前であって普通であるという慮りの欠如と無意識にそれを当たり前だと押し付け合う、よからぬ馴れ合いが生んだすれ違いである。なんでも言わないでわかるだろ合わせろよは甘えだ。甘え散らかしている。熟年夫婦じゃないんだから。ましてやそんなにしょっちゅう会ってる訳でもないのに。
「ん」と言ったらお茶が運ばれてくるような関係性に憧れる前に、やらなあかんことはあるはずで。
互いの違いを知り、面白がり、尊重を辞めないこと
知らなかった相手の部分を見つけることができたらそれを喜ぶこと
まだ知らぬ相手の一面を見つけることを楽しみにすること
すべてを知ったつもりには決してならないこと
きっと、そんな姿勢が理解と呼ばれるに相応しい。
そして、
理解は、愛。らしい。師、曰く。
そうして、
はじめてことばは意義を持つ。
◯ヨコモジ2.0
意図せず妙に真面目な話になったので、そろそろちゃんとふざけた話に戻る。申し訳ない。
さて、もしこのままヨコモジが発展していったらどうなるのだろうか。
グローバル化と叫ばれて久しい世の中だが最早経済の主体はアメリカではない!中国だ!という声も上がっている。ぼくも中国で仕事をしていたので、中国人の方々の勢いは十分に存じているつもりだ。
あの勢いに押しに押されると、中国語が英語をこえて世界基準の共通言語として扱われる可能性も高い。
そうなると今のヨコモジは英語と日本語のハイブリッドだが、そこに中国語が加わる可能性もあるんちゃうか。
ヨコモジ2.0の時代の幕開けである。
そんな時代に、ぼくを好いてくれる稀有な人がもし現れて愛の告白とかしてくれっちゃったりとかしたらどうなっちゃうのだろうか。
愛しているを越える愛のことばをぼくたちはまだ知らない。
それを発明した人にはノーベル賞でも紫綬褒章でもなんでも贈られて然るべきだけど、世界が平和になることと同じくらいむつかしそうだ。
夏目漱石さんは愛してるの代替として
月が綺麗ですね
と言ったそうだし、
三國連太郎氏と瓜二つのミュージシャンは
もうあとには戻れないな
と表現していた。
ぼく個人的には作家・工藤直子さんの
すきになるということは心をちぎってあげるのか
だからこんなに痛いのか
が好きだ。救いようのなさがたまらない。
ともかく。
既にいろんな愛の伝え方、告り方がある。今後ますます拡がっていくことだろう。
ヨコモジ2.0の時代で考えられる告り方の可能性としてはこんな文面がLINEが飛んできたりもするんじゃないだろうか。
「あのね、わりと前からあなたのこと我爱你。ASAPで会いたい。」
( ゚д゚)
多分、こんな顔になる。ピコンとなったラインをひらいたぼくは。
何が何だかパルプンテ、という顔だ。
でも、時代の変化が絶望的に激しくてもうついていけんとか吐かしてたらみすみす恋のチャンスを逃すかもしれん。最先端の愛の告白を告白だと気づかず流しちゃう危険も大いに起こり得る。
なんともったいないことか。パルプンテとか言ってる場合じゃない。それだけは避けねばならん。できることはまだあるはずだ。
ということで、蔦屋書店で中国語辞典を買いますので恋人のいない方はどなたか一緒に勉強して來る愛に備えましょう。
P.S.
読み返してみるとぼくも、メルティングスポッツとかハイブリッドとかパルプンテとか使っている。
ひょっとするとぼくもヨコモ人の素質があるかもしれない。ふふん。
この御恩は100万回生まれ変わっても忘れません。たぶん。