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【MBTI】INTPの思考

僕は知人から論理的な人物だと評されることが多いが、合理的な人間では決してない。

論理的と合理的、このふたつは似通っているようにみえてまったく異なる属性だ(と僕は考えている)。

ここでは個人的なイメージについて述べる。
論理力というのは、アルゴリズムを正しく遂行する能力だ。演算子を正しく用いれば、ただひとつの解に辿り着く。1+1は2であって、それ以外ではない。「+」の意味を誤解しないかぎり。

+-×÷といった演算子は、日常語でいえば「だから」、「したがって」、「なぜなら」等の接続語になるだろう。

言葉の意味というのは人々のあいだで完璧に共有されているわけではない。言葉のニュアンスや意味合い、その語彙によって換気されるイメージの輪郭はひとによって違っている。
そのため、日常語で交わされるディスカッションは、計算式と違って、ただひとつの結論に集約されるとはかぎらない。
だがそれでも、あらかじめ言葉の定義を厳密に定めてやれば、答えのベクトルはある程度同じところに向くはずである。
つまり、論理には答えを一意にまとめあげるような集約性がある。

一方、合理にはそのような力がない。
合理とは、いわばアルゴリズムそのものを見直す能力だ。計算式を正しくたどる能力ではなく、計算式を新しくつくる能力だといえる。
「本能」という言葉を例にとってみよう。
一般的な意見では、「本能」は「理性」と対をなすものだと捉えられている。
しかし、見方を変えれば、「理性」を「本能」の一部だと捉えることもできる。理性は人間が進化させた生理的(=本能的)な機能のひとつなんだと。
もちろん、このふたつの意見はどちらかが正しくて片方は間違っているというものではない。
ただ、異なるふたつの見方が存在する、ということである。
つまり、合理とは思考の柔軟性なのだ。
論理に柔軟性はない。解の集約性、それはむしろ柔軟性の対極に位置するものだろう。
論理と合理、それは思考における剛と柔の関係なのだ。


冒頭でいったとおり、僕は論理的だが合理的な人間ではない。そして、そのことを少し恥じている。
それはなぜか。
モラハラをしでかすのは論理的なだけの、合理的ではない人間なのである。合理的な人間は他者に寛容だ。
僕は合理的な人でありたい。






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