【ショートショート】夕焼け
コンクリート製の階段を勢いよく上って行く。階段の踊り場に出ると、私は後ろをちらりと見た。誰も来ていない。先生にも見られていない。私は溜息をつくと、また一歩屋上へ向かって歩き始めた。心臓の音がいつもよりよく聞こえる。階段を急いで駆けあがったことも手伝っていつもより鼓動が早い。それだけじゃない。私は今、きっと緊張している。さっきから溜息だか、深呼吸だか、息を大きく吐き出しては吸うことの繰り返しだ。そうしないと身体が思うように動かないのだ。まだこれからなのに。
ここの学校は屋上の管理が甘い。本来ならば戸締りをしておかなければならないはずなのに、ほぼ間違いなく鍵は閉まっていない。今日に限って閉まっている、なんてことはないはずだ。私はからからに乾いた喉を潤すために少量の唾をごくりと飲み込むと、血の巡りが一時的に悪くなった手で屋上の扉を押した。
扉を開けて、一歩、屋上に踏みだす。屋上のコンクリートは夕焼けの、温かなオレンジ色に染まっている。彼はいるだろうか? 私からの手紙を読んでくれただろうか? 私は下を向いていた顔を少しずつ上へ向けた。ゆっくりと、辺りを見渡す。私は屋上の柵へ向かって歩き出した。柵にもたれ掛ると、一気に緊張が緩んだ様だった。膝がガクガク震えている。私は立っていることが辛くなってその場にしゃがみ込んだ。
屋上には誰もいなかった。
膝を抱えた両腕の中に、私は顔を埋めた。馬鹿みたいだ。なんでこんなに期待していたんだろう。辛いことだが読まずに捨てられた、とか。最悪気持ち悪がられて、手紙が教室で晒されて、私は明日からイジメの対象に早変わり、ということもあり得る。何をこんなに焦っていたんだろう。馬鹿みたいだ。私は鉛のように重くなった身体を、思うように力が入らない足で支えてようやく立ち上がった。辺りはすっかり暗くなっていた。もう陽が沈みかけている。
屋上の入口へ歩き始めると、誰かが屋上へ入ってくる気配がした。まだ距離があるから顔はよく分からない。私は見つからないように、気配をなるべく消して、ゆっくり扉へ向かった。明日からどうしようか。思うように頭が回ってくれないようだ。どうやら神経回路があちこちで反乱を起こしているらしい。と、その時、私の方へ向かって足音が近づいて来た。見つかったらまずい。教師ならまだいいが、クラスの権力者だったら、どうすればいい? 私は縺れる足で懸命に入口へ走った。足音が近づく。あと少しでドアノブに手が届く。しかし私の身体はコンクリートの地面へ向けて傾いていた。ぶつかる、そう思い身体が咄嗟の反応をしたが、痛みは来なかった。どうやら誰かが私を支えてくれたらしい。誰だろう? 私はお礼を言うために、相手の顔を見た。その途端、一気に顔が熱くなった。
彼は頭を掻きながら、しきりに謝っているようだった。補習で捕まってた、とか、連れを撒くのに手こずったとか何とか。しかし私の耳にはまったく入ってこない。来てくれた。彼は恥ずかしそうに俯くと、もう帰ったかと思った、と言った。私は慌ててぶんぶんと頭を振る。私は転ぶのを阻止してくれた彼の手を強く握ると、そろそろ帰ろうか、と言った。
何故今、こんなことを思いだすのだろうか? 私はベッドに横になりながら外の景色を見た。ちょうど、あの時と同じように、陽が暮れかかっていた。白一色だった病室が、今は夕日を受けてオレンジに染まっている。そして、あの時と同じように、彼の手が私の手を握っている。少し違うのは、私に握り返す力がないことと、手が皺だらけになったことだろうか。私は隣りに座る、すっかり年を取った彼を見ると、できるだけあの時と同じ笑顔を作った。彼も私を見てにこりと笑った。
私の頬を熱いものが伝った。もうすぐ日が暮れる。
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