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『パーティーが終わって、中年が始まる』Pha(幻冬舎)|読書感想文015
「元日本一有名なニート」ことPhaさんが、43~45歳というミッドライフクライシス真っ最中にかけて綴ったエッセイ集。「みずみずしい喪失感」が描かれていて、40代には特に刺さるテーマだ。
いつまでもいつだって、自分と現実とのあいだには、見えない薄皮が一枚はさまっていて、そのせいてすべてがフィクションのように思えていた
この浮遊感というか、離人感というか。私も見覚えのある感情だったのでドキっとする。そう感じる時がある。家族というものを軸にしない生き方や、シェアハウスでも人に執着せずに恬淡とした感じの対人感覚にも、共感。
本書を読んで、逆説的だが「中年になることのフレッシュさ」を感じた。若者から中年になるのだ。大きな変化がじわじわ来る。自分にとって未知な状態。新しく到来した「中年という状態」を詳細に観察した記録なのだ。たとえばこんなことが気になり始める。
中年になって、他人と一緒に過ごすことの許容度が下がったのはなぜだろうか。なんだか中年になると、自分も他人も、存在しているだけでうっとうしさが発生してしまっている気がする。
存在感が否応なく増してしまう「中年」。若い頃はヒゲを生やしていても、ボロボロの服装をしていても、たいして気にも留められないが、中年になると許されなくなる。危険視されてしまう。だから身だしなみに気を遣ったりするという。
権力というもののもっとも些細な始まりは、その人がいるとなんとなく無視しづらいという雰囲気だ。年功序列というシステムが根強いのは、年上の人を軽く扱いにくいという人間の自然な感覚を基盤にしているからだ。
著者はできるだけ、権力なんかは持ちたくないし、むしろたいしたことないと思われたい、フラフラ自由にしていたいと思って生きているという。中年になって増してしまった存在感を持て余している。
中年以降は、論理とか勢いとかではなく、美しいのがいいのかもしれない
水墨画みたいな筆致。まるで京都の枯山水だ。抹茶が飲みたくなる。
読書には喫茶店で珈琲と相場は決まっているが、本書は神社仏閣の庭園で抹茶を味わい、水琴窟の音に耳を傾けたりなどしながら読みたい1冊だった。
個人的には、いまファストフードやチェーン店などの平成の風物詩が気になっているので「デフレ文化から抜けられない」という一篇が示唆に富んでいた。
ロスジェネ世代、就職氷河期世代。そんな風に呼ばれる現在の40代は「デフレの子」だ。昭和の商店街にあるような非効率的な店とは違い、安くてシステマチックな平成の新しいチェーン店たちを、自分たちのためにある新しい日本の文化として歓迎したということが書かれていた。しかし外食が高くなり、一部の富裕層しか行けなくなる日が来るかもしれない。
平成デフレの名残りがギリギリ残っている今のうちに、チェーン店文化をできるだけ楽しんでおくべきなのかもしれない。
とりあえず、ロイホにパーティーしに行こうと思い、本を閉じた。
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