物語を作り、手放す。
少し前の自分を振り返ったり、
今の自分を俯瞰して見たときに思うのが
「ひとは自分を守るために、物語を作ってしまう」
ということだ。
先日読んだ「傲慢と善良」では、
婚活がうまくいかなかったことの理由として、当人が
「自分は個性的すぎるからうまくいかなかった」とか
「自分の容姿が良すぎるから、近寄りがたく思われてしまう」といった
物語を作ることで心を守ることはとても重要だ、という件があった。
(本がすでに手元にないので、うろ覚えだけれど)
また、「私の解放日誌」(韓国ドラマ)では、
内向的で孤独で、人生で満たされたことがないと感じている主人公女性が
物語終盤で
「実家で昔の日記を読んで驚いたわ
記憶の中の自分とは
全然違ったから
協調性がなくて誰にも熱い感情を抱けない
存在感の薄い子だと思ってたけど
日記では大はしゃぎしてた
”この子も あの子も だから好き”と
熱い子どもだった」
と語る。
わたし自身は昔から
自分の気持ちを話すことが得意ではなくて、それを
「子供の頃から母がわたしの気持ちを聞いてくれたことがないから」
という物語を作り、さらには
「わたしは話すより聞く方が好きなのだ」
とキャラまで作っていた。
だから、今学んでいるヒューマンデザインで「喉センター」が白く、そのせいで自分の気持ちや考えをスムーズに表現しにくい傾向にあると知ったとき、ホッとした。
ただ単にそういう個性だったのだ。
それを自分の弱点とジャッジし、責められないように物語を作る必要はなかったのだ。
そこで、わたしは物語をひとつ手放すことができた。
手放して気づく。その物語を作り、キープし続けることにどれほどエネルギーを使っていたのか。
手放すとただ決めるだけで、首から肩へのこわばりがほんの少し緩むのを感じる。
きっとわたしは他にもたくさんの物語をためこんでいる。
これからも新しい物語を作るんだろう。
だけど、時期がきたらそれを手放そう。あっさりと、執着せずに。
それはわたしのようで、わたしでないものなのだ。