映画「42」に出てくるあの人この人

映画42といえばメジャーリーグどころかアメリカを大きく変えた選手、ジャッキー・ロビンソンの伝記映画である。今更語る事でもなければ少しでも野球史に触れている人ならば知っていて当然というレベルの内容だろう。
その主体はチャドウィック・ボーズマン演じるジャッキー・ロビンソンではあるが、それと同じくしてハリソン・フォードの演じるブランチ・リッキーの物語でもあった。ロビンソンの物語を覚えている人は前述したようなレベルだがブランチ・リッキーを取り巻く環境の話というのはあまり描かれていない。レオ・ドローチャーを巡るMLB機構とブルックリン・ドジャースを巡るハッピー・チャンドラーの電話場面などは歴史に詳しければ詳しいほどニヤリとするシーンであろう。
メジャー史、としてこの映画を見た場合は選手ジャッキー・ロビンソンの物語でありながらチームや機構、社会との戦いをリッキーの目線で描いている。多少強引というレベルでロビンソンとリッキーのバディものという描き方をされているが、それ以上にロビンソンとリッキーがどの世界で戦っているかを丁寧に描いているのもこの映画の楽しさであろう。過去黒人選手が苦しんでいる姿を見たことに思う事があったきれいな姿を見せるリッキーと、集客や社会への訴えを含んだ行動、世論の動揺を利用していく食わせ物としてのリッキーの清濁併せ持つ性格を楽しめる映画でもあるのだ。

だからこそこの映画の細やかなところが面白い。よい映画は小物がしっかりしている。
例えば開幕戦のボストン・ブレーブス戦の先発投手は誰かご存じだろうか。字幕ではなく台詞を聞いているとsainという声が聞こえてくる。その投手はボストン・ブレーブスでウォーレン・スパーンと共にダブルエースをしたジョニー・セインであることが分かる。
変化球スライダー誕生の経緯でたまに名前が挙がるあのジョニー・セインだ。(https://www.baseball-almanac.com/box-scores/boxscore.php?boxid=194704150BRO
こういったスコアボックスを見なくても「この投手は誰だろう」という疑問さえ持てばこの試合がどのようなものだったか、投げている投手は誰なのかを調べられるのだ。意外とこれが面白い。こういったスコアブックに丁寧だからこそこういった遊びが可能な映画なのである。
そこから数名ピックアップしてみたい。

1,そっちじゃない! ダッチ・レナード

実はそんな42でも間違いがある。過去、同じ野球を題材にした映画「フィールド・オブ・ドリームス」のシューレス・ジョー・ジャクソンが左投右打という間違いがあるように。(ジャクソンに関しては俳優のレイ・リオッタがどうしても左打ちが出来なかったことからそのような措置をとったというのは映画好きには有名な逸話だが)

それはフィリーズ戦で投げている投手。
投手の名前はダッチ・レナード。過去ブルックリンにも在籍し、ワシントン・セネタースを得てこのフィリーズにやってきた投手である。
この年、といわずとも弱小球団の一角を担っていたフィラデルフィア・フィリーズでエースとして投げていたのが彼だった。1947年は17勝12敗。弱小フィリーズで必要とされる投手であった。

しかし、何かおかしい。
監督、ベン・チャップマンの激しい煽りを与えながらブロードキャストがレナード投げた、という中、レナードは左腕からボールを投げている。
ダッチ・レナードってどこかで聞いた記憶があるな、と思いながら見ているとふと思い出す。そういえばベーブ・ルースを調べている時にボストンかシカゴにそんな左腕投手いたな、と。
ん?
いや待て。ダッチ・レナードが投げている時代はベーブ・ルースも投手をしていた時代であったことを記憶しているから、1910年代の投手。そんな投手が1947年に投げているわけがない。
と思い調べてみると確かにダッチ・レナードはいた。1910年代、ルースを主体にしたボストン・レッドソックスの二、三番手としてずっと投げている左腕が。(https://www.baseball-almanac.com/players/player.php?p=leonadu01)

という事は同姓同名の左腕がいるということか。
慌てて調べてみると、確かにダッチ・レナードはいた。同姓同名の投手はいたのだ。
右腕だが。(https://www.baseball-almanac.com/players/player.php?p=leonadu02)
つまり映画制作陣はダッチ・レナードをボストンの投手と間違えたか俳優が左利きゆえにしょうがなく左腕にしているのである。お前じゃねえ!!そっちのレナードは右腕だ!!

しかしどっちのダッチ・レナードも名投手であったのだ。
左腕のダッチ・レナードは前述したとおりレッドソックスで二番手、三番手となりながら毎年10勝前後をしていた投手である。まだ投手が完投するのが当たり前の時代に10勝というのはエースというにはほど遠いが投手陣の一翼は担っていることが見受けられる。
そして彼を代表するのはシーズン防御率0.96であろう。1912年、22の彼が達成した記録は近代野球とは同じ扱いをされていないものの彼を代表する金字塔としてアメリカでは語られる。通算成績139勝112敗。防御率2.76。時代を代表する投手ではないが時代を振り返る時にその名前が挙がる投手の一人である。

こっちが左腕の方

一方本来ならば右腕で投げていなければならない1947年フィラデルフィアのダッチ・レナードは左腕のレナードと同じようにその時代を代表する投手とは言い難いがその時代においては必ず名前が出てもおかしくない投手であった。
毎年二桁勝利を重ね、1939年のセネターズ在籍時は20勝8敗。三振88でここまで投げ勝ったところにレナードの性格が表れている。(https://www.baseball-almanac.com/players/pitchinglogs.php?p=leonadu02&y=1939
その彼が三振100を超えたのが1940年(124)とこの映画の年である1947(103)なのだから面白い。ロビンソンは彼の絶頂期と戦っているのである。
両者ともその時代を知っている人ほど名前の出てくる投手であったのだ。

が、彼は左腕じゃねえ!そっちのダッチ・レナードじゃねえ。
こういう間違いが起き、それを探せるのが映画や歴史好きの楽しみでもあるのだ。

2,ピッツバーグ!! カービィ・ヒグビー

「ピッツバーグにトレードだ!ピッツバーグ!」
ロビンソン排斥運動に関わった投手としてブルックリンの席を追われることになったカービィ・ヒグビーの台詞がピッツバーグ・パイレーツというチームの存在を描いている。

当時のピッツバーグはまさにフィラデルフィアと共に弱小球団の一つであった。というよりはいわゆる東のチームほど強い時代というほうが正しい。丁度戦争から人員の出帰りもあり港町であり経済の中心であったニューヨーク、古都ボストン、アメリカ第二の都市になっていたシカゴに人が集まるのは当然でどうしてもそれ以外のシンシナティ、フィラデルフィア、ピッツバーグといった五大湖周辺の都市には人が集まりにくかった事情がある。
経済規模的にも鉄鋼業などが盛んだった当時では今ほど人がいなかったわけではないがやはりブルックリンのあるニューヨークなどには劣ってしまう。
カービィ・ヒグビーは当時ではまだ常識的な観念を持っていただけで田舎に都落ちしてしまったということだ。チームとオーナーの関係が見えてくる。

そんなカービィ・ヒグビーはフィラデルフィアからトレードされた1940年にブルックリンのエースであったと知る人は少ないだろう。その勝利数は22勝。ともに22勝したウィット・ワイアットと共にチームを支えその年ブルックリンはシーズン100勝を達成している。
戦争の影がちらつき始め、選手層も変化が始まった時期とはいえこれほど活躍するのは至難の業だろう。

一時代を築いた投手という自負もあったのだろう。ロビンソン排斥運動さえなければ時代がどう評価するか分からない投手の一人でもある。
パイレーツ移籍後の当初は先発投手だったものの1948年にはリリーフになっており、翌年ジャイアンツに移籍した後ほとんど活躍することなく引退している。戦争を経由してシーズン投げていない年が数年あるとはいえ、通算118勝投手の最後としてはあまりにも寂しいものであった。
ピッツバーグ!

3,たった一言だけ出てくるポロ・グラウンズ稀代のホームラン打者 ジョニー・マイズ

「ジャイアンツのマイズが調子いい」
リッキーの口からたった一言しか現れない打者がいる。選手としても登場していない。そもそもジャイアンツが出ていないために仕方ないのだが。
このマイズ、とはだれなのか。
調べてみるとその彼が稀代のホームラン打者である事が分かる。

その名はジョニー・マイズ。彼もまた戦争従軍から戻ってきて1946年からジャイアンツに復帰している。
しかし彼が台頭してきたのはジャイアンツではない。セントルイス・カージナルスからだ。1936年にメジャーデビューするとジョー・メドウィックを抜きチームホームラン王。
丁度チームを支えたガスハウス・ギャングの後期に属し、フランキー・フリッシュなどが落ち着きを見せ始めている一方で映画中ではドジャースの監督でありながら女性問題で更迭処分を食らったレオ・ドローチャーが30歳の一番脂の乗り切った時期でもある。
エースがジェシー・ヘインズからディジー・ディーンに変わった、まさにスタン・ミュージアル以前の強きセントルイスを象徴する選手の一人だ。

彼がホームラン王になったのは1939年。メル・オットー(NYG)の一本差つけた28本でなった。翌年1940年には他の選手たちを一気に抑え込み二位のビル・ニコルソン(CHC)を27本を抑え込み43本で本塁打王。このビル・ニコルソンが本塁打王を取るのがマイズの従軍していた43年、44年であることからニコルソンにとっていかにマイズが目の上のたんこぶであったかがうかがえる。
そのマイズも41年には制裁を欠き、ジャイアンツにトレードに出されている。翌年42年に打点王に輝いているのは彼の意地というべきか。本塁打王はチームメイトにしてライバルでもあったメル・オットーに奪われているが。

その彼が43年から45年の従軍を得て戻ってきた翌年。調子がいいと言われた時の成績はどのようなものだったのだろうか。
メル・オットーは47年に引退。まさに20年代を知り、30年代を駆け抜けていった選手の引退は新たな時代を予感させる時であった。

この年のジャイアンツは打線が爆発している。
キャッチャーのウォーカー・クーパーがキャリアハイの.305、35本塁打122打点。マイズと同じく従軍から帰ってきたウィラード・マーシャルもこの年だけ36本107打点という成績をたたき出している。
このような打高の成績を残したのはボビー・トマソンのみでありこの年がどれだけ異常だったかがよくわかる。

そしてその年のマイズは.302、51本、138打点で本塁打王、打点王の二冠王と絶頂期に入っている。後年の成績などを考えても前述の彼らが霞む成績であった。

この成績を捉えるのはなかなかに難しい。
それはジャッキー・ロビンソンが戦中戦後の混乱の中で生まれた存在であるように復員と次第に表れてきたソ連との冷戦でまだまだ選手と兵士の間が曖昧だった時代である。毎日オリオンズにアルバイト選手として投げていたレオ・カイリーなどがいた時代なのだ。
選手一人一人のレベルも今のように全員が選手として研磨しておけばいいという時代ではない。日本もそうであったようにまだまだ戦争の傷跡が選手の成績などにがっつり残る時代であり、アメリカもまた戦争と無関係、と言えなかった時代なのだ。

事実マイズはトレードされた1942年は26本しか本塁打を打てていない。
ポロ・グラウンズはその構造上センターさえ狙わなければ右左翼ともに本塁打が出やすい場所であり、それで本塁打を荒稼ぎしたのがかのベーブ・ルースというのは有名なところであるが、その球場ですら暴力的な本塁打を放ったのはこの年と翌年の40本であり、その翌年には年齢もあってか一気に老け込んでいる。
元々マイズは三振も少なく15年という選手生命の中で856三振しかしていないのだが47年が42三振と少ない。それは彼が絶頂期に入ったというところもあるが、それと同じくらい投手のレベルがまだもとに戻り切っていないことが示唆できる。
まだ戦後直後という単語の似合う時代であり、マイズ本人の絶頂期と重なったからこそこの成績が表れているのである。この成績もまた戦後直後というアメリカの混乱期を表す成績でもあり、ジャッキー・ロビンソンと共に生まれた成績でもある。

そのような時代の一側面を見せてくれる選手の名前がたった一言だけでも出るところに42という映画の時代性を物語るのだ。

4,終わりにかえて

アメリカの映画というのは意外と知識を求められる。
知識がなくとも楽しめるものは多数あるが、二度、三度観る度に新たな皮が向かれていくのだ。かの「ジュラシックパーク」ですら娯楽作品以外の見方が出来るほどである。アメリカの文化や社会、それに伴う問題を理解すればするほど面白くなる映画が非常に多いのがアメリカの映画にはある。

それは42のような単なるジャッキー・ロビンソン自伝的な映画ですら、である。実際後半に行けば行くほど写真で見た事ある絵面が飛び出してくる。私でもピンとこなかったのはベン・チャップマンとの謝罪写真くらいであり、むしろカウント・ベイシー楽団の「Did You See Jackie Robinson Hit That Ball?」を使わないのに驚くくらいだ。ジャッキー・ロビンソン物語の曲なのに。

カウント・ベイシーといえばsatch and joshなどニグロリーガーを題材にしたレコードを……これ以上話すのは野暮か。ジャズが好きならぜひ調べてもらいたい。

baseball encyclopediaを片手に観てみるとさらに深く楽しめるのがアメリカ映画の面白いところである。日本映画は案外この辺りが弱い作品が多いのでこういう見方をあまりしない、アメリカ映画ならではの面白さかもしれない。

野球のみならず映画には多くの面白い部分が隠されているのでそれを探す旅をするのも一興だ。

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