きらやか銀行野球部休部から思う事

1,きらやか銀行野球部休部

東北でも古くから企業チームとして社会人野球を支えてきたきらやか銀行野球部が休部となった。よほどの情熱がない限り復活は難しいであろうからここで一旦幕引きとなるだろう。1952年の、まだ山形相互銀行の頃から持っていたチームであったから70年という長い歴史に幕を閉じる。
無期限休部、という事ではあったが事実上の終了であろう。いすゞ自動車や日産自動車のようにここ10年の間で復活する事もあるまい。下手をしたら我々が病床に就くころの年老いた時期に思い出したように、というような可能性だって無きにしも非ず、という具合だ。

それにつけても社会人野球部の、特に企業部は休廃部が多い。
三菱重工名古屋、広島、長崎といった三菱重工が他チームに合併という形で休部。深谷組も休部ととにかく休部が多い。
北海道では室蘭シャークス企業部復帰、関東でも茨木日産自動車が登録、九州では新日鉄大分が久しぶりの企業部復帰、クラブチームのビック開発など話題はあるものの、社会人野球全体としてはクラブチームが活発になる一方で企業部の落ち込みが止まらない。

いつの間にか大企業と企業部を持つために作ったようなチームだけが生き残っている現状がある。

2、企業部=福利厚生

元々社会人野球が発展していくうえで企業と福利厚生の話は切っても切り離せないだろう。
元々社会人野球はクラブチームを基本として作られており、その多くが地域のクラブチームであるのはご存じであろう。

それこそ「全○○クラブ」という名前の元、そこに住む多くの野球選手が集まってチームを作っていた頃だ。都市対抗野球大会の初代優勝チームが全大連満州野球倶楽部であることを知る人も少なくない。
それが段々と企業が野球チームを持つようになっていき現在のような形になっていく。勿論社会人野球という歴史だけで見れば都市対抗野球大会以前から野球部を持っていたチームも少なくなく、現在でもチームを残す日立製作所は同じく日立の日本鉱業日立と共に1910年代には出来上がっており『お山の早慶戦』として日立の野球を活発にさせていたし、戦前には東京瓦斯や日本生命や鐘紡など企業が参加していた。

現在とは違いプロ野球などなかった時代で企業と個人の繋がりが強い時代故にこういった企業部が出来ていった背景がある。
会社員は社歌を覚え、企業が持つ運動部を応援し、社内のだれかと結婚して引退まで会社にいる、という時代があったからこそ社会人野球部の企業部が出来ていったわけである。

特に戦後は人不足というのもあって1950年頃から創部したチームも多い。
電電東京や電電近畿、明治生命、日本石油、東芝、日本楽器、松下電器、本田技研……。現在名門と言われる企業部は1950~1960年前後に生まれたチームばかりだ。これも戦後復興における企業のマンパワー回復、そして戦前のような企業と人が密接な時代を取り戻すために大きくなっていったと言っても差し支えなかろう。

ある意味では日本企業復活の象徴でもあったし、その頂に1948年より創部した熊谷組野球部の存在があっただろう。世界大会でも優勝経験のある熊谷組野球部は日本の野球がいかに強いものかを伝える存在でもあった。
それは企業がチームを持ち、個人と法人が強く結びつくことで成り立つ、日本企業の縮図における一環としてあったと言ってもよい。

3、企業と個人におけるあり方の変化

しかし言い換えれば企業と個人の関係の崩壊がそのまま福利厚生であった企業部の存亡にかかわってくる。
熊谷組野球部の部史である「燃えよ火の球」では熊谷太三郎が創部に対して「金になるものでなければやってはならない」と言い、それに対して答える事が熊谷組野球部の命題となっていた。勝つことを宿命づけられていた事がそのまま熊谷組のアイデンティティになる。
勝つことで熊谷組の名前を売り、それが熊谷組の今後を安泰に導く、というものであった。

しかしそれも1993年の熊谷組休部から社会人野球部は一気に崩壊してしまう。プロ野球も本格的に活発化しており、社会人野球がどれだけ頑張ってもプロ野球の後塵を拝む事になってしまう。
さらにバブル以降の不景気が遅い、チームを持つことに反対する勢力から押し切られる形で休廃部するチームが増えてきた。
そして旧日本的な「新入社してから定年まで」という終身雇用制が崩壊し、福利厚生の在り方も見直しが求められるようになっていく。それによって企業の中で野球部は居場所を失い始めていったのだ。

存在意義を失った野球部はどんどん休廃部していった。あれだけあった新日鉄の野球部がほとんど失われ、自動車メーカーもほとんどが撤退。「燃えよ!」で野球部に対して熱く語り、野村克也を招聘したシダックスでさえ撤退してしまった。

社会人野球部を立ち上げる企業もあるものの、辞めていく企業が多数。
全盛期に比べると本当にチームがなくなってしまった。
企業も野球部を持つよりはプロ野球チームのスポンサードゲームに資金を出した方がいい、というような状態になっており、完全に社会人野球は立場を失っている状況にあるのだ。

そこに危惧を覚えたかSNSを始めたりしている企業部は少なくなく、例えば三菱重工などは陸上部など運動部と提携してyoutubeを始めたり(三菱重工スポーツチャンネル)して野球部の新たなアイデンティティを模索しているが、大きく動いている企業はほとんどと言っていいほどない。
なんならyoutube一つだけでもクラブチームの山岸ロジスターズの方が力を入れている始末だ。(ロジスターズチャンネル

そのため完全に企業の地力を持つ野球部だけが生き残り、それ以外のチームは段々と縮小、統廃合、そして休廃部を余儀なくされるといった状態になっている。
特に新型ウィルス以降その影響はすさまじく、今回きらやか銀行がその影響をもろに受けてしまったが、それに追随する企業は出てくるだろう。そうでなくとも新型ウィルスが落ち着きの気配を見せたら次にはロシアとウクライナの戦争で輸入出が非常に不安定になっている。数社の撤退は覚悟せねばならないし、欧州の自動車産業の動きを見ていると日本の自動車産業も必ずしも安泰と言い難いところを踏まえると、ふとしたタイミングであの企業が、というような事態は十分にありうる。

もはや社会人野球部の企業部はいつ撤退を余儀なくされてもおかしくない時代に突入しているのである。

4,今後どうしていけばいいのか、一案

では今後どうするべきなのか、と問われると、難しい問題でもある。

あくまで福利厚生の一環である野球部が存続するために金銭を求めていく、という方法もあるが、恐らく営利目的の行動は出来ないだろう。実際鮮ど市場の持っていたゴールデンラークスは九州独立リーグとして球団創立に至っている。

少なくとも企業内でアイデンティティを作る事が重要となるのだが、私はここに日立製作所と日本鉱業日立の、いわゆる「お山の早慶戦」を参考にしてはどうか、と考えるところである。
例えば自動車メーカーなら自動車メーカーなどの大商談会を実施し、それの集客として野球部の試合をする、という事もありなのではないか、と思うのである。
例えば東海ではトヨタ自動車と三菱自動車岡崎があるので、その二企業の商談会と試合をセットで行い、相乗効果を作っていく、なんてのは一つの案でもあると思うのだ。
父や母は購入品の商談をしてもらい、子供には野球を見てもらう。なんなら試合はオープン戦扱いで5回までなどにして野球をしたことなさそうな子供向けの野球教室なんてやってみてもいい。
そういう企画営業なんてのは両者にとってもおいしい。
そういったことを今後やってみてもいいのではないか、と思うのだ。

福利厚生ではなく、企業の新たなイベンターとして野球部がある。
そういう者でもいいと思うのだ。
勿論これ以外にもたくさんのアイデアがあると思う。そこから「アマチュアであるからこそ出来る事」「企業の看板を背負っているから出来る事」を模索する時期に来ているのだ。
最早「福利厚生」なんて言葉で目をつぶってもらえるような、企業に人を繋げられない時代に来ているのだ。ならば新たなアイデンティティを求めていくしかない。

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