女の私が、痛風になるなんて
『4.9』
これは、夏に受けた人間ドックでの、私の尿酸値である。
世の中には、痛みを伴う多くの病気があるが、私はこの数日間で、地獄のような痛みの日々を送ることになった。
この日記は、その備忘録である。
それは突然だった。
いつものように職場のデスクで座っていたところ、左足の甲に吊るような痛みを感じた。
いつもならつま先で地面を押して、土踏まずを伸ばしたり、軽く足の裏をマッサージしたり、あとは歩いたりしているうちに、いつの間にか痛みは消えていくのだが、この日は違った。
伸ばすも揉むも、痛みはどんどん強くなる一方。
次第に周りの人の声が耳に入らなくなり、ジワジワと脂汗が流れ、左足の甲からスネにかけてビリビリと痺れる感覚があった。
これはいつもと様子が違うぞ?と思い、おもむろに立ち上がって歩こうとしたところ、体重をかけた左足に、この世のものとは思えない激痛が走った。
これは、折れてる。
そうとしか思えなかった。
その場で、近くにいた上司に現在の症状を伝え、整形外科を受診するため急きょ休暇を申請した。
職場内の高尿酸値を抱えた中年男性たちから、「こちら側へようこそ」という歓迎を受けたが、そこはスマートに無視した。
痛みは刻一刻と増し、更衣室から駐車場に停めた車まで歩くことができず、同僚に車の移動を依頼した。
仕事中の夫に連絡したが、よりによってその日は外せない会議が入っており、私に付き添うことができなかった。
とりあえず、痛みがあるのは左足だったので、車の運転はできた。職場から整形外科に直行した。
ところがお昼前に到着した整形外科は、既に午前の診療が終了しており、午後の診療は14時30分から。
左足は、心臓の鼓動と同じリズムで激痛が襲っていた。
車から降りても歩くことができず、病院で受付けだけして、一旦家に帰って、そこからまた車に乗って病院を受診するなど不可能な状態だった。
せめて車から受付までの歩行を介助してもらえないかと、整形外科の駐車場から藁にもすがる思いで母親に電話をするが、繋がらず。
意を決して、車から降りて、整形外科の受付に向かった。
左足を引きずりながら一歩一歩、壁や手すりを力強く掴んで進むが、なかなか進まない。
一歩踏み出すごとに襲う、めまいのするような激痛。
10m程度の距離を歩いただけなのに、着ていたワイシャツは冷汗でびっしょりになった。
やっとの思いで受付に辿り着き、午後の受付を済ませたが、午後の診療開始まで2時間強、待合室で待たなければならなかった。
待合室には午前の診療を終え、順番に会計がなされ、帰っていく患者たち。
20分もしないうちに、待合室の患者は私1人になり、受付のカーテンも閉められた。
母から折り返しの着信があったが、痛くて会話ができる状態ではなかった。
LINEで、「足が痛くて病院におり、手伝ってもらおうと思ったが無事に受付が出来たのでもう大丈夫」な旨をメッセージで送信した。
左足は、降ろしていても椅子に上げていても、ただそこにあるだけで激痛が走る。
時計を見上げると、12時半を回っていた。
「あと2時間、このまま耐えろと…?」
この痛みは急患扱いではないのか。
成人女性が脂汗をかき、苦悶の表情を浮かべながらこんなに痛がっているのに、午後の診療の順番を待たなければならないのか。
そんな理不尽を受付のカーテンを開けて訴える気力さえ湧かず、ただただ痛みに耐えるしかなかった。
職場から直でここまで来たため、喉も渇いていた。トイレにも行きたい。でも私の左足は際限なく痛みを増し続け、足を1ミリも動かすことができなくなっていた。
痛くて、辛くて、私は泣いた。
耐えられない。痛い。お願いだから誰か助けて。
マスクの中が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになる。
でも、ティッシュを持っていないし、カウンターに置いてあるティッシュを取りに行くことすらできない。
このまま2時間、泣き続けるつもりで泣いた。
痛みは、我慢すればするほど増すことは分かっていた。
だからせめて、感情だけは解放しよう。誰もいないし、歯を食いしばって我慢したところで治るわけでもない。
思いっきり顔を歪めて、しゃっくりを上げながら、ボロボロ泣いた。
そしたら、
「ゆか!?」
後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
母だった。
来てくれとは頼んでいないが、仕事を早退して病院に来ている娘を案じて、父と母が駆け付けたのだった。
病院の待合室で1人、裸足の左足を椅子に上げて、号泣している38歳の娘を見てどう思ったのだろうか。母の目にもうっすら涙が浮かんでいた。
私は心底、助かった。
母が車椅子を借りてきてくれたおかげで、トイレにも行けたし、水も買ってきてもらえた。
結局、母が最後まで付き添ってくれた。
レントゲンの結果、120%折れていると思っていた骨にはなんら異常なく、先生からは「急性の関節炎かな」なんてあいまいな診断がとりあえずなされた。
念の為の血液検査もされて、1週間後に結果を聞きに来るように言われ、湿布と痛み止めが処方された。
歩けないので、松葉杖も貸し出された。
何も解決しないまま帰ることとなったが、正直母が来ていなかったら自分1人では詰んでいた。
母がいなかったら、トイレを我慢していた代償を結構初期の段階で受けることになっていただろう。
母の協力で、なんとか家まで帰ってくることができた。
それからの数日間は、夫の介護のもとでの生活だった。
当初の痛みからは随分良くはなったが、左足に体重を乗せることができず、松葉杖がなければ歩くことさえできなかった。
高尿酸値を抱えた中年男性の夫からも、痛風を疑われた。
が、通常痛風になるのは男性が圧倒的に多く、男性の中でも尿酸値が7.0以上の人が危険信号と言われている。
そして、生活習慣では、普段からビールを多く飲んだり、運動不足であったり、血圧が高かったり、そういった人にリスクがある。
私は冒頭にも書いたように、直近の尿酸値は4.9だったし、普段から筋トレや有酸素運動はしているし、血圧は普段から低すぎるくらいだし、ビールなんて飲み会でしか飲まない。
そしてなにより、女である。
痛風になるリスクが低すぎる。
だから、絶対に違うと思っていた。
…でもその反面、痛くなったのはちょうど生理前後の体調不良の時だったし、この頃謎の頭痛や気分の落ち込みがあったし、仕事は多忙を極め寝不足や不規則な生活が続いてたし、私の身体の中で、私の知らない何かが暴れ出したのでは?という不安もあった。
痛風とは、食生活や生活習慣以外にも、ストレスや不規則な生活などでも発症するらしいではないか。
私は、自分が痛風を患うことを想像した。
大好きな宮城の郷土料理、『はらこ飯』はもう一生食べられない。
楽しみにしていた今週末の友達との飲み会もキャンセルしなくちゃ。
せっかく興味を持って取り組んでいた薬膳も、プリン体基準で食材を選ばなければならない。
私の人生、まだまだこれからなのに、もう持病を抱えて生きていかなければならないのか。
そう思うと、残りの長い人生の色がなくなっていく感じがした。
38歳女性のYahoo検索履歴が、『痛風 女性 尿酸値』のワードで埋まった。
そんな不安に包まれている中で、職場にいる後輩からLINEが来た。
仕事の話を少しして、最後に
「ちなみに今職場では、ゆかさんが痛風になったということで、話が広まっています。」
と丁寧に教えてくれた。
足の痛みがグッと増した。
早く。早く血液検査の結果を教えてくれ。
仕事を休んで5日目、やっと血液検査の結果が出たとのことで、病院へ向かった。
その頃には、松葉杖がなくてもなんとか歩けるようになっており、自分の足で車を運転できた。
混み合っている待合室でも、相変わらずYahooの検索窓に『尿酸値 急に上がる』というワードを打ち込み、どんどん痛風に関する知識を吸収した。
女の私が、痛風になるなんて…
…ありえるのだろうか?
ほどなく名前が呼ばれ、診察室へ。
神妙な面持ちをした先生が、申し訳程度に私の腫れた足を触り、一言。
「血液検査に動きはないから…一時的なものなのかな〜(ボソッ)」
は?なんて?
返事ができずにいたら、
「また湿布と痛み止め出すから、また1週間後来てください」
とだけ言って、去ろうとした。
「あの…!痛風の心配はないのでしょうか…?」
不安な表情の教科書のような顔で尋ねる私に、先生は食い気味で
「あ、ないない」
とだけ言って、そして去っていった。
…そんなことある?
こちとらどんだけ不安な数日間を過ごしたか。
痛風って何回フリック入力したか。
今後の人生に絶望したか。
聞いてからしか教えてくれないことある!?
言葉足らずって言われない?
いろんな感情が込み上げたものの、まずはなにより
よかったーーー!!!
痛風の疑いが晴れて、謎のケガという結果になっただけで、視界が一気にひらけた。
血液検査の結果も、言わないとコピーすらもらえなかったけど、尿酸値は3.5を記録しており、その数字が光って見えた。
どうだ。低いだろ。職場で供覧してやろうか。
私は痛風ではなかった。
でも、体調に気をつけなければならない年齢であることには間違いない。
これを機に、食生活や生活習慣には気をつけていこうと固く誓った。
『3.5』
これが新しい私。